と、美奈子の胸は更に烈しく波立つた。押へ切れぬ希望と妙な不安とが、胸一杯に充ち満ちた。


 箱根行

        一

「御機嫌よく行つてらつしやいませ。」
 玄関に並んだ召使達が、口を揃へて見送りの言葉を述べるのを後にして、美奈子達の乗つた自動車は、門の中から街頭へ、滑かにすべり出した。
 乾燥した暑い日が、四五日も続いた七月の十日の朝だつた。自動車の窓に吹き入つて来る風は、それでも稍《やゝ》涼しかつたが、空には午後からの暑気を思はせるやうな白い雲が、彼方此方にムク/\と湧き出してゐた。
 美奈子は、母と並んで腰をかけてゐた。前には、母の気に入りの小間使と自分の附添の女中とが、窮屈さうに腰をかけてゐた。
 美奈子は、母から箱根行のことを聴かされてから、母が一緒に伴つて行くと云ふ青年のことが、絶えず心にかゝつてゐた。が、母の方からはそれ以来、青年のことは何とも口に出さなかつた。母が口に出さない以上、美奈子の方から切り出して訊くことは、内気な彼女には出来なかつた。
 出立の朝になつても、青年の姿は見えなかつた。美奈子は、母が青年を連れて行くことを中止したのではないかとさへ思つた。さう思ふと美奈子は、失望したやうな、何となく物足りないやうな心持になつた。
 自動車が、日比谷公園の傍のお濠端を走つてゐる時だつた。美奈子は、やつと思ひ切つて母に訊いて見た。
「あの、学生の方とかをお連れするのぢやなかつたの?」
 瑠璃子は、初めて気が付いたやうに云つた。
「さう/\。あの方を美奈さんに紹介して置くのだつたわ。貴女《あなた》まだ御存じないのでせう。」
「はい! 存じませんわ。」
「学習院の方よ。時々制服を着ていらつしやることがあつてよ。気が付かない!」
「いゝえ! 一度もお目にかゝつたことありませんわ。」
「青木さんと云ふ方よ。」
 母は何気ないやうに云つた。
「青木さん!」美奈子は一寸|駭《おどろ》いたやうに云つた。「その方は此間、亡くなられたのではございませんの。」
 美奈子も、母の男性のお友達の一人なる青木|某《なにがし》が、横死したと云ふことは、薄々知つてゐた。
「いゝえ! あの方の弟さんよ。兄《おあにい》さんは、帝大の文科にいらしつたのよ。」
 茲《こゝ》まで聴いたとき美奈子にはもう凡てが、判つてゐた。此の旅行の同伴者が、何人《なんぴと》であるかがもうハツキリと
前へ 次へ
全313ページ中238ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング