うな残酷なことはなさるまいとは思ひますけれども、念のためにお願して置くのです。いやどうもお邪魔しました。」
 夫人の顔が、遉《さすが》に蒼白に転ずるのを尻目にかけながら、信一郎は、素早く部屋を出ようとした[#「出ようとした」は底本では「出ようした」]。が、それを見ると、夫人は屹となつて呼び止めた。
「渥美さん! お待ちなさい!」
 その凜とした声には、女王のやうな威厳が備はつてゐた。
「貴君《あなた》は、自分の仰しやることさへ仰しやつてしまへば、それでお帰りになつてもいゝとお考へになるのですか。貴君が、妾《わたくし》に御用事がある中は、貴君《あなた》に帰る権利が、妾《わたくし》になかつたやうに、妾《わたくし》が貴君に申上げることが残つてゐる以上|貴君《あなた》はお帰りになる権利はありません。妾《わたくし》は一言|丈《だけ》貴君《あなた》に申上げることが残つてゐます。」
 美しい眉は吊り上り、黒い眸は、血走つてゐた。信一郎を、屹と見詰めて立つてゐる姿は、『怒れる天女』と云つたやうな、美しさと神々しさとがあつた。
「貴君《あなた》は、今青木さんの遺言とやらを、長々しく仰しやいましたが、それを妾《わたくし》が受けると思つていらつしやるのですか。時計こそ、お受けしましたが、そんな御遺言なんか、一言半句だつて、お受けする覚えはありません。そんなお言伝を、青木さんから承はるやうな覚えは、さら/\ありません。今承はつたお言葉全部を、そのまゝ御返上します。」
 夫人の声にも、憎みと怒りとが、燃えてゐた。が、信一郎はたぢろがなかつた。
「死人に口がないと思つて、そんなことを仰しやつては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と云ふ海軍大尉があつた筈です。まさか、ないとは仰しやいますまいね。」
「よく御存じですね。」
 夫人は、平然として答へた。
「それなら、青木君の遺言を受ける責任と義務とがあります。貴女に、もし少しでも良心が残つていらつしやるのなら、今貴君にお目にかけるものを、平然と読めるかどうか試して御覧なさい!」
 さう云ひながら、信一郎はポケットに曲げて入れてゐたノートを夫人の眼前に突き付けた。

        三

 信一郎が、眼の前に突き付けたノートを、夫人は事もなげに受取つた。ノートの重さにも堪へないやうな華奢な手で、それを無造作に受け取つた。
 鋼鉄の如き心と云ふのは
前へ 次へ
全313ページ中218ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング