のだつた。

        四

『信一郎、|わが恋人《マイラヴ》よ!』
 信一郎の頭は、この短い文句でスツカリ掻き擾《みだ》されてしまつた。彼は十七八の少年か何かのやうに、我にも非ず、頬が熱くほてるのを感じた。夫人に対して、張り詰めてゐた心持が、ともすれば揺ぎ始めようとする。
 彼は、心の中で幾度も叫んだ。夫人の技巧の一つだ。誘惑の技巧の一つだ。自分の眼に入るやうに、わざとこんな文句を、書き散して置いたのだ。見え透いた技巧なのだ! が、さう云ふ考への後から、又別な考へが浮んで来た。あの悧口な聡明な夫人が、こんな露骨な趣味の悪い技巧を弄する訳はない! やつぱり、夫人の本心から出た自然の書き散しに違ひない。信一郎の心の中の男性に共通な自惚《うぬぼれ》が、ムク/\と頭を擡げようとする。あの先刻受け取つた手紙も、かうして見ると、夫人の本心を語つてゐるのかも知れない。夫人を妖婦のやうに思ふのも、みんな自分の邪推かも知れない。彼女は、男性との恋愛ごつこ[#「ごつこ」に傍点]に飽き/\してゐるのだ。彼女の周囲に、蒐まる胡蝶のやうな戯恋者に、飽き/\してゐるのだ。本当に、心をも身をも捨てゝかゝる、真剣な異性の愛に飢ゑてゐるのかも知れない。世馴れた色男《ダンディ》風の男性に、慊《あき》たらない彼女は、自分のやうな初心《うぶ》な生真面目な男性を求めてゐたのかも知れない。
 夫人に対する信一郎の敵意がもう半《なかば》崩れかけてゐる時だつた。
「御免下さいまし。」
 銀鈴に触れるやうな爽かな声と共に、夫人は静かに扉《ドア》をあけて入つて来た。
 湯上りらしく、その顔は、白絹か何かのやうに艶々しく輝いてゐた。縮緬の桔梗の模様の浴衣が、そのスツキリとした身体の輪廓を、艶美に描き出してゐた。
 わづか四五尺の間隔で、ぢつとその美しい眸を投げられると、信一郎の心は、催眠術にでもかゝつたやうな、陶酔を感ずるのを、何《ど》うともすることが出来なかつた。
「まあ! 本当によくいらつしやいましたこと。妾《わたくし》、もうあれ切りかと思ひましたの。もう、あれ切り来て下さらないのかと思つてゐましたよ。」
 信一郎が、彼女の入つて来たのを見て、立ち上らうとするのを、制しながら、信一郎と向きあつて小さい卓を隔てながら、腰を下した。
 信一郎は、ともすれば後退《あとじさ》りしさうな自分の決心に、頻りに拍車を与へ
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