かつてゐる。それほど、悲惨なことはない。さう思ふと、信一郎は、
『おい! 君!』と、高声に注意してやりたい希望に動かされた。が、それと同時に、血を分けた[#「血を分けた」は底本では「血を分けて」]兄弟を、兄に悲惨な死を遂げしめた上に、更に弟をも近づけて、翻弄しようとする毒婦を憎まずにはゐられなかつた。
『汝妖婦よ!』彼は、心の中《うち》でもう一度さう叫んだ。が、信一郎が、これほど心を痛めてゐるにも拘らず、当の青年は、何が可笑《をか》しいのか、軽く上品に笑つてゐるのが、手に取るやうに聞えて来た。
 信一郎は、見るべからざるものを見たやうに、面《おもて》を背けて足早に門を駈け出《い》でたのである。

        五

 新宿行の電車に乗つてからも、信一郎の心は憤怒や憎悪の烈しい渦巻で一杯だつた。
 瑠璃子夫人こそ、白金《プラチナ》の時計を返すべき当の本人であることが解ると、夫人の美しさや気高さに対する讃嘆の心は、影もなくなつて、憎悪と軽い恐怖とが、信一郎の心に湧いた。
 青木淳の死の原因が、直接ではなくても、間接な原因が、自分であることを知りながら、嫣然として時計を受け取つた夫人の態度が、空恐しいやうに思ひ返された。『妾《わたくし》が預つて本当の持主に返して上げます。』と、事もなげに云ひ放つた夫人の美しい面影が、空恐ろしいやうに想ひ返された。

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『が、彼女と面と向つて、不信を詰責しようとしたとき、自分は却つて、彼女から忍びがたい恥かしめを受けた。自分は小児の如く、翻弄され、奴隷の如く卑しめられた。而も美しい彼女の前に出ると、唖のやうにたわいもなく、黙り込む自分だつた。自分は憤《いきどほり》と恨《うらみ》との為にわな/\顫へながら而も指一本彼女に触れることが出来なかつた。自分は力と勇気とが、欲しかつた。彼女の華奢な心臓を、一思ひに突き刺し得る丈《だけ》の力と勇気とを。……彼女を心から憎みながら、しかも片時も忘れることが出来ない。彼女が彼女のサロンで多くの異性に取囲まれながら、あの悩ましき媚態を惜しげもなく、示してゐるかと思ふと、自分の心は、夜の如く暗くなつてしまふ。自分が彼女を忘れるためには、彼女の存在を無くするか、自分の存在を無くするか二つに一つだと思ふ。……さうだ、一層《いつそ》死んでやらうかしら。純真な男性の感情を弄ぶことが、どんなに危険
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