うですね。それぢや小使に御案内させますから真鶴までお歩きなさい。死体の方は、引受けましたから、御自由にお引き取り下さい。」
 信一郎は、兎に角当座の責任と義務とから、放たれたやうに思つた。が、ポケットの底にある時計の事を考へれば、信一郎の責任は何時果されるとも分らなかつた。
 信一郎は車台に近寄つて、黙礼した。不幸な青年に最後の別れを告げたのである。
 巡査達に挨拶して、二三間行つた時、彼はふと海に捨つるべく、青年から頼まれたノートの事を思ひ出した。彼は驚いて、取つて帰した。
「忘れ物をしました。」彼は、やゝ狼狽しながら云つた。
「何です。」車内を覗き込んでゐた巡査が振り顧つた。
「ノートです。」信一郎は、やゝ上ずツた声で答へた。
「これですか。」先刻《さつき》から、それに気の付いてゐたらしい巡査は、座席の上から取り上げて呉れた。信一郎は、そのノートの表紙に、ペンで青木淳とかいてあるらしいのを見ると、ハツと思つた。が、光は暗かつた。その上、巡査の心にさうした疑《うたがひ》は微塵も存在しないらしかつた。彼は、やつと安心して、自分の物でない物を、自分の物にした。

        七

 真鶴から湯河原迄の軽便の汽車の中でも、駅から湯の宿までの、田舎馬車の中でも、信一郎の頭は混乱と興奮とで、一杯になつてゐた。その上、衝突のときに、受けた打撃が現はれて来たのだらう、頭がヅキ/\と痛み始めた。
 青年のうめき声や、吐血の刹那や、蒼白んで行つた死顔などが、ともすれば幻覚となつて、耳や目を襲つて来た。
 静子に久し振に逢へると云つたやうな楽しい平和な期待は、偶然な血腥《ちなまぐさ》い出来事のために、滅茶苦茶になつてしまつたのである。静子の初々しい面影を、描かうとすると、それが何時の間にか、青年の死顔になつてゐる。「静子! 静子!」と、口の中で呼んで、愛妻に対する意識を、ハツキリさせようとすると、その声が何時の間にか「瑠璃子! 瑠璃子!」と、云ふ悲痛な断末魔の声を、思ひ浮べさせたりした。
 馬車が、暗い田の中の道を、左へ曲つたと思ふと、眼の前に、山|懐《ふところ》にほのめく、湯の街の灯影が見え始めた。
 信一郎は、愛妻に逢ふ前に、何うかして、乱れてゐる自分の心持を、整へようとした。なるべく、穏やかな平静な顔になつて、自分の激動《ショック》を妻に伝染《うつ》すまいとした。血腥い青年
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