に酔うてゐた。
 彼の耳に囁かれた夫人の言葉が、甘い蜜のやうな言葉が、一つ/\記憶の裡に甦がへつて来た。『自分を理解して呉れる最初の男性』とか、『そんな女性をお好きぢやありませんの』と云つたやうな馴々しい言葉が、それが語られた刹那の夫人の美しい媚のある表情と一緒に、信一郎の頭を悩ました。
 自分が、生れて始めて会つたと思ふほどの美しい女性から、唯一人の理解者として、馴々しい信頼を受けたことが、彼の心を攪乱し、彼の心を有頂天にした。
 彼の頭の裡には、もう半面紫色になつた青木淳の顔もなかつた。謎の白金《プラチナ》の時計もなかつた。愛してゐる妻の静子の顔までが、此の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]たけた瑠璃子夫人の美しい面影のために、屡々掻き消されさうになつてゐた。
 十二時近く帰つて来た夫を、妻は何時ものやうに無邪気に、何の疑念もないやうに、いそいそと出迎へた。さうした淑《しとや》かな妻の態度に接すると、信一郎は可なり、心の底に良心の苛責を感じながらも、しかも今迄は可なり美しく見えた妻の顔が、平凡に単純に、見えるのを何《ど》うともすることが出来なかつた。
 その次ぎの日曜まで、彼は絶えず、美しい夫人の記憶に悩まされた。食事などをしながらも、彼の想像は美しい夫人を頭の中に描いてゐることが多かつた。
「あら、何をそんなにぼんやりしていらつしやいますの、今度の日曜は何日? と云つてお尋ねしてゐるのに、たゞ『うむ! うむ!』云つていらつしやるのですもの。何をそんなに考へていらつしやるの?」
 静子は、夫がボンヤリしてゐるのが、可笑しいと云ひながら、給仕をする手を止めて、笑ひこけたりした。夫が、他の女性のことを考へて、ボンヤリしてゐるのを、可笑しいと云つて無邪気に笑ひこける妻のいぢらしさが、分らない信一郎ではなかつたが、それでも彼は刻々に頭の中に、浮んで来る美しい面影を拭ひ去ることが出来なかつた。
 到頭夫人と約束した次ぎの日曜日が来た。その間の一週間は、信一郎に取つては、一月も二月もに相当した。彼は、自分がその日曜を待ちあぐんでゐるやうに、夫人がやつぱりその日曜を待ち望んでゐて呉れることを信じて疑はなかつた。
 夫人が、自分を唯一人の真実の友達として、選んで呉れる。夫人と自分との交情が発展して行く有様が、いろ/\に頭の中に描かれた。異性の間の友情は
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