戦つて見たいと思ふのです。」
 二千有余年も昔の、猶太《ユダヤ》の少女の魂が、大正の日本に、甦つて来たやうに、瑠璃子は炎の如く熱狂した。
 が、父は冷静だつた。彼は、熱狂し過ぎてゐる娘を、宥《なだ》めるやうに、言葉静かに説き諭した。
「瑠璃子! お前のやうに、さう熱しては困る。女の一番大事な貞操を、犠牲にするなどと、そんな軽率なことを考へては困る。数万の人の命に代るやうな、大事な場合は、大切な操を犠牲にすることも、立派な正しいことに違ひない。が、あんな獣のやうな卑しい男を、懲すために、お前の一身を犠牲にしては、黄金を土塊《つちくれ》と交換するほど、馬鹿々々しいことぢやないか。」
「だが、お父様!」と、瑠璃子は直ぐ抗弁した。
「相手は、お父様の仰《おつ》しやる通り、取るに足りない男には違ひありません。が、現在の社会組織では人格がどんなに下劣でも、金さへあれば、帝王のやうに強いのです。お父様は、相手を『獣のやうに卑しい男』とお蔑すみになつても、その卑しい男が、金の力で、お父様のやうな方に、こんな迫害を加へ得るのですもの。妾《わたくし》が、戦はなければならぬ相手は荘田勝平と云ふ個人ではありません。荘田勝平と云ふ人間の姿で、現れた現代の社会組織の悪です。金の力で、どんなことでも出来るやうな不正な不当な社会全体です。金さへあれば、何《なん》でも出来ると云つたやうな、その思想です。観念です。妾《わたくし》は、それを破つて見たいと思ふのです。」
 瑠璃子は、処女らしい羞恥心を、興奮のために、全く振り捨てゝしまつたやうに、叫びつゞけた。
 父は、子の烈しい勢を、持ち扱つたやうに、黙つて聞いてゐた。
「それに、お父様! ユーヂットは、操を犠牲にしましたが、それは相手が、勇猛無比なホロフェルネス、操を捨てゝかからなければ、油断をしなかつたからです。妾《わたくし》は、妻と云ふ名前ばかりで、相手を懲し得る自信があります。何うか妾《わたくし》を無いものと、お諦めになつて、三月か半年かの間、荘田の許へやつて下さいまし。匕首《あひくち》で相手を刺し殺す代りに、精神的にあの男を滅ぼして御覧に入れますから。」
 其処には、もう優しい処女の姿はなかつた。相手の卑怯な執念深い迫害のために、到頭最後の堪忍を、し尽して、反抗の刃を取つて立ち上がつた彼女の姿は、復讐の女神その物の姿のやうに美しく凄愴だつた。

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