て、その日に焼けて赤銅《しゃくどう》のように光っている頬を、大粒の涙がほろほろと流れ落ちた。二人は涙のうちに、しばらくは言葉がなかった。
「あなあさましや。などかくは変らせたまうぞ。法勝寺《ほうしょうじ》の執行《しぎょう》として時めきたまいし君の、かくも変らせたまうものか」
有王は、そう叫びながら、さめざめと泣き伏した。が、最初|邂逅《かいこう》の涙は一緒に流したが、しかしその次の詠嘆には、俊寛は一致しなかった。俊寛は逞しい腕を組みながら、泣き沈む有王の姿を不思議そうに見ていた。
彼は、有王が泣き止むのを待って、有王の右の手を掴《つか》んで、妻を麾《さしまね》くと、有王をぐんぐん引張りながら、自分の小屋へ連れて帰った。有王は、その小屋で、主《しゅ》に生き写しの二人の男の子と三人の女の子を見た。俊寛は、長男の頭を擦《さす》りながら、これが徳寿丸《とくじゅまる》であるといって、有王に引き合せた。その顔には、父らしい嬉しさが、隠し切れない微笑となって浮んだ。
が、有王はすべてをあさましいと考えた。村上天皇の第七子|具平親王《ともひらしんのう》六|世皇孫《せいのこうそん》である俊寛が、南蛮の女と契《ちぎ》るなどは、何事であろうと考えた。彼は、主《あるじ》が流人になったため、心までが畜生道に陥ちたのではないかと嘆き悲しんだ。
彼は、その夜、夜を徹して俊寛に帰洛《きらく》を勧めた。平家に対する謀反の第一番であるだけに、鎌倉にある右府《うふ》どのが、僧都の御身の上を決して疎《おろそ》かには思うまいといった。
俊寛は、平家一門が、滅んだときいたときには、さすがに会心の微笑《えみ》をもらし、妻の松の前や鶴の前が身まかったということをきいたときには、涙を流したが、帰洛の勧めには、最初から首を横に振った。有王が、涙を流しての勧説《かんぜい》も、どうすることもできなかった。
夜が明けると、それは有王の船が、出帆の日であった。有王は、主の心に物怪《もののけ》が憑《つ》いたものとして、帰洛の勧めを思い切るよりほかはなかった。
俊寛は、妻と五人の子供とを連れながら、船着場まで見送りに来た。
そこで、形見にせよといって、俊寛が自分で刻んだ木像をくれた。それは、俊寛が、彼自信の妻の像を刻んだものだった。俊寛の帰洛を妨げるものは彼の妻子であると思うと、有王はその木像までが忌《いま》わしいものに思われたが、主の贈物をむげにしりぞけるわけにもいかないので、船に乗ってから捨てるつもりで、何気なくそれを受取った。
別れるとき、俊寛は、
「都に帰ったら、俊寛は治承三年に島で果てたという風聞を決して打ち消さないようにしてくれ。島に生き永らえているようなことを、決していわないようにしてくれ。松の前が、鶴の前が生き永らえていたらまた思うようもあるが、今はただひたぶるに、俊寛を死んだものと世の人に思わすようにしてくれ」
そんな意味をいった。その大和言葉が、かなり訛《なまり》が激しいので、有王は言葉通りには覚えていられなかった。
有王の船が出ると、俊寛及びその妻子は、しばらく海辺に立って見送っていたが、やがて皆は揃って、彼らの小屋の方へ歩き始めた。五人の子供たちが、父母を中に挟んで、嬉々として戯《たわむ》れながら帰って行く一行を、船の上から見ていた有王は、最初はそれを獣か何かの一群《ひとむれ》のようにあさましいと思っていたが、そのうちになんとも知れない熱い涙が、自分の頬を伝っているのに気がついた。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年8月28日公開
2005年10月14日修正
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