と知ると、その機を逸しないで、蔓を手早く手元へ繰り寄せる。一間ばかりの水底まで来た魚は、奇怪な姿を見せながら、狂い回る。が、水際までは決して上らない。そして、俊寛の手が、少しでも緩《ゆる》むと矢のように、沖へ逸走する。彼は蔓を延ばしたり、緩めたりすることによって、水中の魚を疲らせようとする。半裸体のまま岩頭に立って活動する俊寛の姿は、目ざましいものであった。
とうとう、俊寛はその五尺を越ゆる大魚を征服してしまう。岩の上に釣り上げられた後も、なお跳躍して海に入ろうとする魚の頭を、俊寛はそばの大石で一打ちする。魚は尾や鰭《ひれ》を震わせながら、死んでしまう。俊寛は、その二十貫を越える大魚の腹に足をかけながら、初めて会心の微笑をもらす。
その時俊寛は、ふと人の気配を感じた。魚を釣るために、夢中になっていた俊寛は、気がついて周囲を見回した。見ると、いつの間に近寄ったのだろう。一人の土人の少女が、十間ばかりの後方に立ちながら、俊寛の姿をじっと見詰めているのだった。おそらく俊寛の勇ましい活躍を先刻から見ていたのだろう。
年は、十六、七であったろう。が、背丈《せたけ》はすくすくと伸びて、都の少女などには見られないような高さに達していた。腰の周囲に木の皮を纏《まと》っただけで、よく発達した胸部を惜し気もなく見せていた。髪は梳《くしけず》らず、蔓草をさねかずら[#「さねかずら」に傍点]にしていた。色は黒かったが、瞳が黒く人なつこく光っていた。
長い間、女性と接したことのない俊寛は、この少女を一目見ると、自分の裸体が気恥かしくなって、思わず顔が赤くなった。が、相手が少しの猜疑《さいぎ》もなく、無邪気に自分を凝視《ぎょうし》しているのを見ると、俊寛はそれに答えるように、軽い微笑を見せずにはいられなかった。少女は微笑はしなかったが、そのもの珍しげに瞠《みは》っている目に、好意を示す表情が動いたことは確かだった。俊寛は、久しぶりに人間から好意のある表情を見せられたので、胸がきゅっとこみ上げてくるように感じた。
彼は、再び針を海中に投じた。魚は、すぐ食いついた。その魚を引き上げる間、少女は熱心に見物している。そして第三番目の針を投じても、少女は去らない。俊寛は、少女の方を振向きながら時々、微笑を見せる。少女は、硫黄《いおう》を採るために来たのだろう。が、硫黄を入れる筥《はこ》をそばへ置き捨てたまま、いつまでも俊寛が鰤を釣り上げるのを見ている。
とうとう夕暮が来た。俊寛は、釣り上げた魚を引きずりながら、自分の小屋への道を辿《たど》る。一町ばかり歩いて、後を振返った。少女も家路《いえじ》に向おうとして立ち上っている。が、歩き出さないで、俊寛の方を、じっと見詰めている。
俊寛は、その日から自分の生活に新しい希望が湧いたことに気がつく。彼は、その翌日も同じ場所に行った。すると、昨日の少女が、昨日彼女が蹲《うずくま》っていたのと同じ場所に蹲っているのを見る。俊寛の胸には、湧き上るような欣《よろこ》びが感ぜられる。今日こそ、昨日よりももっと大きい鰤を釣り上げて少女に見せてやろうと思う。が、昨夜の間に、鰤はこの海岸を離れたとみえ、いくら針を投げても、手答えがない。
彼はいらいらして、幾度も幾度も針を投げ直す。が、幾度投げ直しても、手答えがない。彼は、少女が退屈して、立ち上りはしないかと思うといらいらしてくる。が、少女はじっと蹲ったまま身動きもしない。俊寛は、ほかの釣場所を探ろうと思うけれども、少女がもし随《つ》いてこなかったらと思うと、この場所を動く気はしない。そのうちに、俊寛は疲れて、針を水中に投じたまま、手を休めてしまう。
その時に、突然かの少女が叫び始めた。俊寛は、最初彼女が、何か自分に話しかけているのではないかと思った。が、少女は天の一方を見詰めながら叫んでいる。そのうちに、俊寛は、その叫び声の中に、ある韻律《いんりつ》があるのに気がつく。
そして、この少女が歌をうたっているのだということが分かる。それは朗詠《ろうえい》や今様《いまよう》などとは違って、もっと急調な激しい調子である。が、そのききなれない調子、意味のまったく分からない詞《ことば》の中に、この少女の迫った感情が漲《みなぎ》っているのを俊寛は感ぜずにはいられなかった。
俊寛は、やるせなくこの少女がいとしくなる。歌い終ると、少女は俊寛の方へその黒い瞳の一|瞥《べつ》を投げる。俊寛はたまらなくなって立ち上り、少女の方へ進む。すると、今まで蹲っていた少女は、急に立ち上って五、六間向うへ逃げる。が、そこに立ち止まったまま、それ以上は逃げようとはしない。俊寛は、微笑をしながら手招きする。が、少女は微笑をもってそれに答えるけれども、決して近寄らない。俊寛は、じれて元の場所へ帰る。すると、少
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