、飲食したことはなかった。彼は椰子の実の汁を吸っていると、自分の今までの生活が夢のように淡く薄れていくのを感じた。清盛、平家の一門、丹波少将《たんばのしょうしょう》、平判官《たいらのはんがん》、丹左衛門尉《たんさえもんのじょう》、そんな名前や、そんな名前に対する自分の感情が、この口の中のすべてを、否、心の中のすべてを溶かしてしまうような木の実の味に比べて、まったく空虚なつまらないもののような気がしはじめた。
 俊寛は、口の中に残る快い感覚を楽しみながら、泉のほとりの青草の上に寝た。そして、過去の自分の生活のいろいろな相《そう》を、心の中に思い出してみた。都におけるいろいろな暗闘、陥擠《かんせい》、戦争、権勢の争奪、それからくる嫉妬、反感、憎悪。そういう感情の動くままに、狂奔《きょうほん》していた自分のあさましさが、しみじみ分かったような気がした。船を追って狂奔した昨日の自分までが、餓鬼《がき》のようにあさましい気がした。煩悩《ぼんのう》を起す種のないこの絶海の孤島こそ、自分にとって唯一の浄土ではあるまいか。康頼や成経がそばにいたために、都の生活に対する、否、人生に対する執着が切れなかったのだ。この島を仮のすみかと思えばこそ、硫黄ヶ岳に立つ煙さえ、焦熱地獄に続くもののように、ものうく思われたのだ。こここそ、ついのすみか[#「すみか」に傍点]だ。あらゆる煩悩と執着とを断って、真如《しんにょ》の生活に入る道場だ。そう思い返すと、俊寛は生れ変ったような、ほがらかな気持がした。
 ふと、寝がえりを打つと、すぐ自分の鼻の先に、撫子《なでしこ》に似た真っ赤な花が咲いていた。それは、都人《みやこびと》の彼には、名も知れない花だった。が、その花の真紅《しんく》の花弁が、なんという美しさと、清らかさを持っていたことだろう。その花を、じっと見詰めていると、人間のすべてから知られないで、美しく香《にお》っている、こうした名も知れない花の生活といったようなものが考えられた。すると、孤島の流人である自分の生活でさえ、むげ[#「むげ」に傍点]に生甲斐のないものだとは思われなくなった。彼は、自殺しようとした自分の心のあさはかさを恥じた。彼の心には、今新しい力が湧いた。彼は勇躍して立ち上った。そして、海岸へ走り出た。いつもは、魂も眩《くら》むようにものうく思われた大洋が、なんと美しく輝いていたことだろう。十分昇り切った朝の太陽のもとに、紺碧《こんぺき》の潮が後から後から湧くように躍っていた。海に接している砂浜は金色《こんじき》に輝き、飛び交うている信天翁《あほうどり》の翼から銀の光を発するかと疑われ、いつもは見ることを厭っていた硫黄ヶ岳に立つ煙さえ、今朝は澄み渡った朝空に、琥珀色《こはくいろ》に優にやさしくたなびいている。
 俊寛は、童《わらべ》のようなのびやかな心になりながら、両手を差し広げ、童のように叫びながら自分の小屋へ駆け戻った。

          三

 島に来て以来一年の間、俊寛の生活は、成経や康頼との昔物語から、謀反の話をして、おしまいにはお互いの境遇を嘆き合うか、でなければ、砂丘の上などに登りながら、波路《なみじ》遥かな都を偲《しの》んで溜息をつきながら、一日を茫然と過ごしてしまうのであったが、俊寛はそうした生活を根本から改めようと決心した。
 彼は、つとめて都のことを考えまいとした。従って、成経や康頼のことを考えまいとした。彼は、成経や康頼が親切に残して置いてくれた狩衣《かりぎぬ》や刺貫《さしつら》を、海中へ取り捨てた。長い生活の間には、衣類に困るのは分かりきっていた。が、困ったら、土人のように木の皮を身に纏《まと》うても差支えないと考えた。
 その上、三人でいた間は、肥前《ひぜん》の国《くに》加瀬《かせ》の荘《しょう》にある成経の舅《しゅうと》から平家の目を忍んでの仕送りで、ほそぼそながら、朝夕《ちょうせき》の食に事を欠かなかった。そのためでもあるが、三人は大宮人《おおみやびと》の習慣を持ちつづけて、なすこともなく、毎日暮していた。俊寛は、そうした生活を改め、自分で漁《すなど》りし、自分で狩りし、自分で耕《たがや》すことを考えた。
 彼は、そういう生活に入る第一歩として、成経や康頼の記憶がつきまとっている今までの小屋を焼き捨て、自分で発見したあの泉の畔《ほとり》に、新しい家を自分で建てることを考えた。
 彼は、その日から、泉に近い山林へ入って、木を伐った。彼が持っている道具は、一挺の小さい鉞《まさかり》と二本の小太刀であった。周囲が一尺もある木は、伐り倒すのに四|半刻《はんどき》近くかかった。が、彼が額《ひたい》に汗を流しながら、その幹に鉞を打込むとき、彼は名状しがたい壮快な気持がする。清盛に対する怨みなどは、そうした瞬間、泡のように彼
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