「何か物をいいつけられた時、『でも』などというものではありません。さ、御本を見るのですよ。」
セエラは本を見ました。「ル・フィス」は「むすこ」、「ル・フレエル」は「兄弟」。わかりきったことでしたが、セエラはおかしさを耐《こら》えつづけました。セエラは心の中で、
「ジュフアジ先生がいらしったら、わかって下さるでしょう。」と思っていました。
ジュフラアジ先生はじき来られました。大変立派な、賢そうな中年のフランス人でした。彼は熟語読本に身を入れようとしているセエラのしとやかな姿に眼をとめますと、心を惹かれたような様子をしました。
「これが、私の方の新入生ですか?」と、彼はミンチン女史の方へ振り向きました。「うまく行けばいいですがね。」
「この子のお父さんは、大変フランス語を習わせがっているのですが、この子は何だか勉強したくなさそうなのです。」
「それはいけませんね、|お嬢さん《マドモアゼール》。」彼は親切そうにいいました。
「一緒にお始めになりさえすれば、きっと面白くなりますよ。」
セエラは辱められでもしたかのような気持で、立上りました。彼女は大きな青鼠色の眼で、ジュフラアジ氏の顔をじっと見ました。話しさえすれば、先生はわかって下さるのだと彼女は思いました。で、セエラは何の飾りけもなしに、美しい流暢なフランス語で話し出しました。女先生《マダム》にはもちろん何をいっているのだかわかりませんでした。が、セエラはこういったのでした。「先生《ムシュー》が教えて下さるのなら、何でもよろこんで勉強します。しかし、この本にあることはとうに知っているということを、女先生《マダム》に申し開きしたいのです。」
ミンチン先生はセエラが語り出したのを聞くと、飛び立つばかりに驚いて、眼鏡越しに、何か忌々しそうに、セエラを見つめました。ジュフラアジ先生は微笑みはじめました。先生の微笑は非常に喜んでいるしるしでした。セエラの子供らしい美しい声が、自分の母国語をこうまで率直に、可愛らしく語るのを聞いていると、まるで故郷にでもいるような気がするのでした。暗い霧のロンドンにいると、いつもは故郷が世界のはてのように遠く思われるのでしたが。‥‥セエラが語り終えると、彼は情愛の深い顔付で、熟語読本を取り上げ、ミンチン女史にいいかけました。
「ねエ先生《マダム》、もう教えるほどのものはありませんよ。この子はフランス語を覚えたのじゃアない、この子自身がフランス語ですよ。アクセントなんぞ素敵なものだ。」
「なぜ、私にいわなかったのです。」ミンチン女史はひどく感情を害して、セエラに向き直るのでした。
「私――私、お話ししようと思ったのですけど、私、切り出しが拙《まず》かったんでしょう。」
ミンチン女史にはセエラのいい出そうとしていたことが解っていました。またセエラがいい出し得なかったのは、ミンチン女史に恥をかかさないためだったということも解りました。けれども、女史は、生徒達がセエラの話を聞き、仏語文法書のかげで忍び笑いをしているのを見ると、急にむらむらして来ました。
「静かになさい、皆さん。」女史は机を叩いて、きびしい声を出しました。「静かになさいったら?」
その時以来、女史はセエラに対して、いくらか敵意を感じたようでした。
三 アアミンガアド
その最初の朝、セエラは、室内の生徒全体が自分を熱心に見守っているのを感じながら、ミンチン女史のそばに坐った時、自分と同じ年頃の少女が一人、明るい、懶《ものう》げな青い眼でセエラをじっと見ているのにじき気が付きました。肥った、唇のつき出たその子は、あまり怜悧《りこう》そうではありませんでしたが、気質《きだて》は大変よさそうに見えました。亜麻色の髪をかたく結び、リボンをつけていました。ジュフラアジ氏がセエラに話しかけた時、その少女はちょっと怯えた眼をしました。が、セエラがいきなりフランス語で答えると、少女は吃驚《びっくり》して飛び上り、真紅《まっか》になりました。何週間も何週間も、仏語の「父《ペール》、母《メール》」さえ覚えられずに泣いていたところへ、ふいに自分の知らぬ単語まで造作なく動詞でつなぎ合せて話しているのを見ると、少女はたまらなくなったのでした。
彼女は夢中で見つめながら、思わずリボンを噛んだので、ミンチン女史に見つかってしまいました。女史はちょうどむしゃくしゃしているところだったので、たちまち少女に喰ってかかりました。
「セント・ジョン! そのお行儀は何ですか。肱《ひじ》をお直しなさい。口からリボンをお出しなさい。すぐお立ちなさい!」
セエラはそれを見ると、その子がひどく可哀そうになり、お友達にでもなってあげたいような気持になりました。他人《ひと》が悩んでいたり、不幸であったりすると、すぐその諍《いさか》いの中に飛びこんで行きたくなる性癖《くせ》のセエラでした。
「もしセエラが男の子で、二三百年前に生れていたら。」と、よくお父さんはいったものです。
「抜身《ぬきみ》をひっさげて、苦しんでいる人なら、誰でも助けたり庇《かば》ったりしながら、諸国を遍歴《へんれき》しただろうになア。この子は困っている人達を見ると、いつでも戦いたくなるのだから。」
課業が終ると、セエラは肥った少女を探しに出ました。少女はしょんぼり窓の下の席に蹲《うずくま》っていました。セエラはこんな場合誰でもいうようなことを云っただけなのでしたが、セエラがいうと、それは何かしら情が籠《こも》っていて、気持よく聞えるのでした。
「お名前、何て仰《おっ》しゃるの?」
肥った少女は吃驚《びっくり》しました。新入生は初め妙に近づきにくいものである上、セエラは前の晩から皆の間でいろいろ噂の出た新入生で、馬車や、小馬や、おつきの女中や、身のまわりのものから考えても、ちょっとよりつきにくい少女なのでした。
「私、アアミンガアド・セント・ジョンって名なのよ。」
「私はセエラ・クルウ。あなたのお名前、ほんとに綺麗ね。まるでお伽噺《とぎばなし》の名みたいに聞えるわ。」
「あなた、お好き?」とアアミンガアドは飛び上りそうになっていいました。「私――私はあなたの名前大好き。」
セント・ジョンは、学者の父を持っているために、いつも苦しめられていました。父は七八ヶ国語に通じ、何千巻の蔵書を暗記しているというような人でした。ですから、父は娘が、簡単な歴史やフランス語ぐらい覚えるのがあたりまえだと思っているのでした。ところが、セント・ジョンは学校の中でも一番頭が悪いほどだったのです。
「こいつは、無理にも覚えさせるようにして下さらなければ駄目です。」と、父はミンチン女史に頼んだのでした。
こういう訳で、アアミンガアドは、いつでも恥しめられたり、泣かされたりしていました。彼女は覚えたかと思うと、すぐ忘れてしまいました。覚えこんでも、何のことだか一向解らないという風でした。で、彼女は、セエラを感嘆の眼で見るより他ありませんでした。
「あなた、フランス語お上手なのね。」
セエラは大きな、奥の深い窓際席《ウィンドウシイト》に坐り、両手で縮めた足の膝を抱いていました。
「自家《うち》でしょっちゅう聞いていたから話せるのよ。あなただって、聞きつければ、きっと話せるようになってよ。」
「まア、私なんか駄目よ。私、どうしても話せないの。」
「なアぜ?」
アアミンガアドは頭を振りました。下髪《おさげ》がぶらぶら揺れました。
「あなたは、お利口なのね。」
セエラは窓越しに暗い街を眺めやりました。濡れた鉄の欄干《らんかん》や、煤《すす》けた樹の枝などに、雀《すずめ》が飛びかいながら、囀《さえず》っていました。セエラはちょっとの間心の中《うち》で考えてみました。自分は何度となく「お利口だ」といわれたことがある。ほんとにそうなのかしら? ――もしそうだとしたら、全体どういう訳でお怜悧《りこう》なのだろう。――
「私、わからないわ。」
セエラは相手の丸ぽちゃな、むっくりした顔の上に、悲しげな眼付を見ると、かすかに笑いながら話を変えました。
「あなた、エミリイちゃん御覧になって?」
「エミリイちゃんて、どなた?」
アアミンガアドは、さっきのミンチン女史のように聞き返しました。
「私のお部屋に入らっしゃいな。見せてあげるわ。」
二人は一緒に窓席《まどいす》から飛び降りて、二階へ上って行きました。
「ほんと?」客間を通り抜ける時、アアミンガアドは囁きました。「あなた一人の遊び部屋があるってほんと?」
「ええ。父様《とうさま》がミンチン先生にお願いして下すったの。だって――ねえ、私、おあそびする時、自分でお話をこしらえて、自分に話してきかすからなの。ひとに聞かれるのはいやでしょう? それに、人が聞いてると思うと、お話が駄目になってしまうんですもの。」
その時二人は、もうセエラの部屋の前の廊下に来ていました。アアミンガアドはふと立ち止って眼をみはり、息を呑んで、
「お話を拵《こしら》えるんですって?」と喘《あえ》ぐようにいいました。「そんなこと、あなたに出来るの?――フランス語みたいに? ほんとに出来て?」
セエラは驚いて、少女を見返しました。
「誰にだって出来るんじゃないの? あなたやってみたことないの?」
セエラは何か前ぶれするように少女の手を握りました。
「そうっと扉《ドア》のところへ行きましょう。それからさっと戸をあけるわ。そうすれば、きっと捕まるから。」
セエラは笑っていましたが、その眼には神秘な望みが動いていました。アアミンガアドは、なぜどうして何を捕えるのだか、さっぱりわかりませんでしたが、セエラの眼付にはすっかり魅せられてしまいました。何でもいい、きっと面白いことに違いない――アアミンガアドは胸を躍らせながら、爪先立ってセエラの後から戸口に近づきました。不意に扉《ドア》が開くと、小綺麗に片づいた静かな部屋が眼に入りました。炉には穏やかに火が燃えていました。椅子の上には見事な人形が、ちゃんと本を読んでいました。
「あら、もう席にかえっているわ。」とセエラが叫びました。「いつだってああなのよ。稲妻《いなずま》みたいに早いんですもの。」
アアミンガアドは、セエラから人形へ、人形からセエラへ眼を移しました。
「あのお人形――歩けるの?」
「ええ。どうしても歩けるはずだと思うの。歩けると思ってるつもり[#「つもり」に傍点]なのよ。そう思うとほんとにそう見えるんですもの。あなた、いろんなことのつもり[#「つもり」に傍点]になってみたことある?」
「いいえ、ちっともないわ。私――ね、お話してちょうだいな。」
エミリイは、少女が今まで見たこともない見事な人形でしたが、少女はセエラにすっかり魅せられてしまったので、風変りなこの新しいお友達の方へ眼を向けました。
「まア、腰をかけましょうよ。」セエラはいいました。「お話を作るなんて、ほんとに造作もないことよ。そして、始めたらとても止められないの。エミリイ、あなたも聞いてなくちゃアいけないことよ。この方はアアミンガアド・セント・ジョンさんなの。アアミンガアドさん、こちらはエミリイと申します。あなた、抱いてやって下さいましな?」
「抱いてもいい? ほんとによくって? まア、綺麗だこと。」
それから一時間は、セント・ジョンにとって、今まで考えたこともないような楽しい時間でした。午餐《おひる》の鈴《ベル》が鳴って、食堂に降りて行くのもしぶしぶなくらいでした。
その一時間の間、セエラは炉の前に身をちぢめて坐り、様々の不思議な話をしました。緑色の目は輝き、頬には紅がさしてきました。航海の話、印度の話――しかし、アアミンガアドを一番|恍惚《うっとり》させたのは、お人形についてのセエラの空想でした。お人形が皆のいない間に歩いたり、物をいったりする事、だがそれを秘《かく》す必要から、人の気配がすると、「稲妻のように」自分の席に飛び戻るのだという事などでした。
「私達には真似も出来ないわねエ。まア、魔術《てじな》みたいなものね。
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