だれの音が、何かいい事を話してくれてるようよ。星の夜は、継布の中にいくつの星が光ってるか、数えて見るの。あれっぱかしの所にずいぶんたくさんあってよ。それから、あの小さな炉にしたって、磨いて火を入れれば、素敵じゃないの。ね、そう考えてみると、ここだってずいぶんいい部屋でしょう。」
 そういわれると、ロッティも、セエラのいう通りのものが見えるような気がしました。セエラが描くものなら、何でもほんとうだと思いこむロッティでした。セエラは、なおつづけていいました。
「床には厚い、柔かい、青の印度絨毯を敷くとしましょう。それから、あそこの隅には、クッションを一杯のせた長椅子を置くとしましょう。椅子から手を伸すと取れるところに、本箱を置くの。炉の前には毛皮を敷くの。壁は壁掛と額とで隠してしまうの。小さいのでなきゃア似合わないけど、小さくても綺麗なのがあるわ。薔薇色の置ラムプが欲しいわね。真中にはお茶道具をのせたテエブル。丸い銅の茶釜が、炉棚《ホップ》の上でちんちん煮立《にえた》ってるの。寝台もすっかり変えなければ。それから、小雀達は窓に来て入ってもようござんすかというように、慣らしてしまうの。」
「セエラちゃん、私もここに来たいわ。」
 ロッティを送り出してしまうと、セエラには室内の惨めさが、前よりひどく思われました。セエラはしばらく足台の上に坐って、両手で顔をおおうていました。
「寂しい所だわ。世の中で一番寂しい所のように思えることさえあるわ。」
 ふと、セエラはこと[#「こと」に傍点]という微かな音を聞きました。見ると、大きな鼠が一匹、後肢《あとあし》で立って、物珍しげに鼻をうごめかしていました。ロッティの持ってきたパン屑が、そこらに散らかっていましたので、鼠はその匂いに惹かれて出て来たもののようでした。
 鼠はまるで、灰色の頬鬚《ほおひげ》をはやした侏儒《こびと》のようでした。何か問うようにセエラをみつめているのでした。眼付が妙におどおどしているので、セエラはふとこんなことを考えました。
「鼠はきっと辛いに違いないわ、皆に嫌がられて。私だって、皆に嫌がられて、罠をかけられたりしたらたまらないわ、雀は、鼠とは大違いだわ。でも鼠は鼠になりたくてなったわけじゃアないのね。雀の方に生れたくはないかい? なんて聞いてくれる人があるわけじゃアないから。」
 鼠は、初めはセエラを怖がっているようでしたが、雀のような心を持っているとみえ、さっきの雀のように、だんだんパン屑の方に寄って来ました。
「おいで。私は罠じゃアないから。食べてもいいのだよ、可哀そうに。バスティユの囚人達は、鼠と仲よしになったっていうから、私もお前と仲よくなろうかしら。」
 どうして動物に物が解るのか。その訳は解りませんが、しかし、動物に物の解るのは事実です。ことによると世の中には言葉でない言葉があって、何にでも、それが通じるのかもしれません。ことによると、また世の中の事物には、何にでも、目に見えぬ魂があって、声も立てず、話し合うことが出来るのかもしれません。それはとにかく、鼠はセエラがこういった瞬間、もう安心だと思ったようでした。彼はそろそろとパン屑の方に行き、それを食べはじめました。彼は食べながら、さっきの雀のように、時々セエラの方を見て、どうもすみません、というような眼をしました。セエラは、それにひどく心を動かされました。
 それから一週間ほどたったある晩、アアミンガアドがそっと屋根裏へ忍び登って、戸を叩きますと、室内は妙にひっそりしていました。セエラは寝てしまったのかしら、と訝《いぶか》っているところへ、ふいにセエラの低い笑い声が聞えて来ました。
「ほら、メルチセデク、それを持ってお帰り。おかみさんのところへお帰り。」
 そういうと、すぐセエラは戸を開きました。
「セエラさん、誰? 誰と話してたの?」
「お話してもいいけど、あなたびっくりして、声を立てたりしちゃア、駄目よ。」
 アアミンガアドは、その場で危《あぶな》く声を立てるところでした。見渡したところ、室内には誰もいないので、セエラはお化《ばけ》と話していたのかと、アアミンガアドは思ったのでした。
「何か、怖いお話なの?」
「怖がる人もあるわ。私だって初めは怖かったけど、もう何でもないわ。」
「お化?」
「いやアだ。――鼠よ。」
 アアミンガアドは一飛に飛んで、寝台《ベット》の真中に坐りました。声は立てませんでしたが、怖さのあまり息をはずませていました。
「鼠? 鼠ですって?」
「慣れてるから怖かアないのよ。私が呼べば出てくるくらいよ。あなたさえ怖くなければ、呼んでみるわ。」
 アアミンガアドは、初めは怯えて寝台《ベット》の上で足を縮めてばかりいましたが、セエラが落ち着いた顔で、メルチセデクが初めて出て来た時の話をするのを聞いていると、だんだん鼠を見てみたくなりました。彼女は寝台《ベット》の端にのり出して来て、セエラが壁の腰板にある抜穴のそばに跪くのをじっと見ていました。
「そ、その鼠、ふいに駈け出して来て、寝台《ベット》の上に上って来たりしやアしなくって?」
「大丈夫。私達と同じようにお行儀がいいのよ。まるで人間のようだわ。さ、見てらっしゃい。」
 セエラは聞えるか聞えないほどに、口笛を吹きました。何か呪文を称《とな》えるように、四五たび吹きました。すると、それを聞きつけて、灰色の頬鬚を生やした鼠が、眼をきらきらさせて、穴から顔を出しました。セエラがパン屑をやると、メルチセデクは静かに出て来て、それを食べました。彼は少し大きな屑を持って、小忙《こぜわ》しげに帰って行きました。
「ね、あれは、おかみさんや子供達に持ってってやるのよ。えらいでしょう。自分は小さいのだけ食べるのよ。帰って行くと、家《うち》のもの達が悦《よろこ》んで、ちゅうちゅう大騒ぎよ。ちゅうちゅうにも三通りあるのよ、子供のちゅうちゅうと、メルチセデク夫人のちゅうちゅうと、それからメルチセデク君のちゅうちゅうと。」
 アアミンガアドは笑い出しました。
「セエラさんは変ってるわね。でも、いい方ね。」
「私変っていてよ。私はまたいい人になりたいと思ってるのよ。」セエラは小さな手で顔をこすりました。そして、やさしい少し悩ましい顔になりました。「パパもよく私を笑ったものだわ。でも、私笑われてうれしかったわ。私は変人だけど、私のいう出まかせは面白いと、パパは仰しゃってたわ。私、お話を作らずにいられないのよ。お話を作らずには生きていられないのよ。」セエラはちょっと口を噤《つぐ》んで、部屋の中を見廻しました。「少くとも、こんなところに住んでいられるはずはないわ。」
 アアミンガアドは、だんだん惹き入れられて来ました。
「あなたが話すと、何でも、皆ほんとのように思えてくるわ。あなたは、メルチセデクのことを人間のように仰しゃるでしょう。」
「人間なのよ。あれは私達と同じように、ひもじくなったり、吃驚《びっくり》したりするわ。それから結婚して、子供も持ってるわ。だから、あれだって私達のように、何も考えないとはいえないでしょう? あれの眼は、人間の眼のようだわ。だから私、あれに名をつけてやったのよ。」
 セエラは、いつものように膝を抱えて、床に坐っていました。
「それにあれは、私の友達としてつかわされたバスティユ鼠なのよ。」
「まだバスティユのつもりなの? いつでも、ここはバスティユだというつもり[#「つもり」に傍点]でいらっしゃるの?」
「たいていそのつもりよ。時とすると、どこか別の所のつもり[#「つもり」に傍点]にもなるけど、バスティユのつもり[#「つもり」に傍点]になら、すぐなれるわ。殊に寒い日などには。」
 ちょうどその時、アアミンガアドは寝台《ベット》から転《ころが》り落ちそうになりました。向うから壁をコツ、コツと叩く音を聞いたからでした。
「なアに? あれ?」
 セエラは立ち上って、お芝居の口調で答えました。
「あれこそは、隣の監房にいる囚人じゃ。」
「ベッキイのこと?」
「そうよ。こうなの、コツ、コツ と二ツ叩くのは、『囚人よ、そこにいるのですか?』という意味なの。」
 セエラは返事でもするかのように、こちらから壁を三度叩きました。
「ね、これは、『はいおります。別に変りはありません。』という意味なの。」
 すると、ベッキイの方から、コツ、コツ、コツ、コツと、四つ叩く音がしました。
「あれは、こうなの、『では、同胞《きょうだい》よ、安らかに眠りましょう。お休みなさい。』」
 アアミンガアドは、うれしさのあまり眼を輝かせました。
「まるで、何かのお話みたいね。セエラさん。」
「みたいじゃアなくて、ほんとにお話なのよ。何だってかんだって物語だわ。あなただって一つの物語だし――私も一つの物語よ。ミンチン先生だって、やっぱり物語だわ。」
 セエラはまた床に坐って話し出しました。アアミンガアドは、自分がいわば脱走囚のようなものだということなぞ忘れて、セエラの話に聞きとれていました。で、セエラは彼女に、このバスティユに夜通しいてはならないから、そっと梯子を降りて、自分の寝室《ベット》へ行くように、注意しなければなりませんでした。

      十 印度の紳士

 が、アアミンガアドやロッテイは、そう毎晩屋根裏に忍んで行ったわけではありません。セエラはいつ行っても屋根裏にいるというわけではありませんし、抜け出たあとをアメリア嬢に見舞われる惧《おそ》れもないではありませんでした。で、セエラはたいてい一人ぼっちでした。彼女は屋根裏に一人いる時よりも、階下《した》で皆の間にいる時の方が、よけい一人ぼっちな気がしました。
 プリンセス・セエラとして馬車に乗り、女中を従えていた時には、よく通りがかりの人が振り返って見たものでしたが、今は、使《つかい》に出歩くセエラを、眼にとめるものもありませんでした。ぐんぐん脊丈《せたけ》は伸びて行くのに、古い着残りしかないので、形の整わないのはもとよりのことでした。セエラは時々商店の鏡に映る自分の姿をちらと見て、思わず吹き出すこともありましたが、時とすると顔を紅らめ、唇を噛んで、逃げ出さずにはいられませんでした。
 日が暮れて、窓の中に灯がともると、セエラは通りがかりに暖かそうな部屋を覗いて見るのが常でした。火の前に坐ったり、テエブルを囲んで話したりしている人達を見て、彼女は、よくその人達のことを想像してみるのでした。ミンチン女塾のある一劃《いっかく》には、五つか六つの家族が住んでいました。セエラはそれぞれの家族と、彼女の空想の中で親しくなっていました。その中で一番好きな家族を、セエラは『大屋敷《おおやしき》』と呼んでいました。というわけは、その家《うち》の人が大きいからではなく、その家には人がたくさんいるからでした。そのたくさんの人達は、大きいどころか、子供の方が多いくらいでした。肥った血色のいいお母さんと、肥った血色のいいお父さんと、これもまた肥った血色のいいお祖母さんと、八人の子供と、たくさんの召使と――これが『大屋敷』の人達でした。大屋敷のほんとうの名は、モントモレンシイというのでした。
 ある晩のことでした。非常に滑稽なことが持ち上りました。もっとも、考えようによっては、ちっとも滑稽なことではなかったかもしれません。
 セエラがモントモレンシイ家の前を通りかかると、子供達はどこかの夜会へでも出かけるらしく、ちょうど舗道《ペーヴメント》を横切って馬車の方へ歩いて行《いく》ところでした。二人の女の子は、白いレエスの服に美しい飾帯《サッシ》を着けて、先に馬車へ乗りました。それにつづいて、五歳の少年ギイ・クラアレンスが乗りこもうとしていました。少年の頬は紅く、眼は青で、丸い可愛い頭は巻毛に被われていました。あまり美しいので、セエラは手籠を持っていることも、自分の身装《みなり》のみすぼらしいことも――何もかも忘れ、もう一目少年を見たい気持で一杯になりました。で、彼女は思わず立ち止って、少年を眼で追いました。
 ちょうど降誕祭《こうた
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