には殊に熱心に指してくれた。この人も飛香落から指して、平手に進んだ。この頃は、自分として、一番|棋力《きりよく》の進んだときだと思ふ。この会所で、今の萩原六段と知り合になつた。大阪から来たばかりの青年で、まだ土居さんに入門しない前だつた。香落で指して、滅茶苦茶に負けた。恐らく飛角香位違つてゐた。
 とにかく、二枚位違ふ人に、だん/\指し進んで行くことは自分の棋力の進歩が見えて、非常に愉快なことである。しかしさう云ふ場合は、絶えず定跡《ぢやうせき》の研究が必要である。二枚落で指してゐるときは二枚落の定跡を、飛香落で指してゐるときは飛香落の定跡をと、定跡の研究を進めて行くべきである。
 将棋をうまくならうと思へば、定跡は常に必要である。殊に初段近きまたはそれ以上の上手と指す場合、定跡を知つてゐると云ふことは、第一の条件である。定跡を知らないで上手《うはて》と指すことは、下駄履きで、日本アルプスへ登るやうなつまらない労力の浪費である。例へば、二枚落を指す場合、六五歩と下手が角道《かくみち》を通すか通さないかは、山崎合戦で、天王山を占領するか否か位の大事な手である。自分など下手と二枚落を指し、下手が五六歩と突いて来ないと、こりや楽だと安心するのである。語を換へて云へば、六五歩と角道を通す手を知らないで上手と二枚落を指すことは、槍の鞘を払はないで突き合つてゐるやうなものである。
 飛香落にも、角落にも、飛落にも、ゼヒとも指さなければならない手があるのである。だから、かう云ふ手を知らないで、戦つたのでは勝てるわけはないのである。しかし、もし六五歩と云つたやうな二枚落の定跡のABCを知らずに、上手と指して勝てる場合があつたら、それは上手がそれだけの力がないので、所謂手合違ひの将棋である。そんな場合は角落の違位しかないのである。語を換へて云へば、定跡を知らなかつたら、上手に向つて角一枚位は損である。定跡を知れば、飛角でも勝てるのが、定跡を知らなければ二枚でも勝てないのである。
 玄人《くろうと》と指した場合、玄人が本当に勝負をしてゐるのか、お世辞に負けたりしてゐるのではないかと云ふことは、頭のいい人なら、誰にでも気になるだらう。「若殿の将棋桂馬の先が利き」といふ川柳があるが、それと同じやうに玄人相手のときは、勝敗とも本当でないやうに考へられる。
 しかし、現今の棋士は、相当の人格を
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