から鼠鳴《ねずな》きをして(浅草の六区や玉の井の女が鼠鳴きして客をよんだが、これは古代からのならわしである)手を指し出してその男をよんだ。男は近づいて(何か御用ですか)と云うと、(ちょっと話したいのです。その戸は閉まっているようですが、押《お》せば開きます。どうぞ開けておはいり下さい)と、云った。男は、思いがけない事だと思ったが、とにかくはいると、女が迎《むか》えて(その戸を閉めてから、お上り下さい)と、云ったので上った。上ると、みすの中に引き入れた。昔は、一間の中にみすを垂れて、その中が女の居間であり、閨房《けいぼう》であった。さし向いになって見ると、年は二十ばかりで、愛嬌《あいきょう》があり美しい女である。この位美しい女に、誘惑《ゆうわく》された以上、男として手を拱《つく》ねていることはないと思ったので、一緒《いっしょ》に寝《ね》た。割合い広い家なのに、家人は一人もいない。どうした家だろうと、最初は怪《あや》しんだ、が、女と親しくなるにつれて、そんな事は気にならないで、日が暮れるのも忘れて寝ていた。夜になると、門を叩《たた》く者がある。外に案内に出る者もないので、男が起き上って行って門を開いた。すると、侍らしい男が二人と、女房《にょうぼう》らしい女が一人、下女を一人連れている。そして家にはいって来ると、手分けをして、しとみ(雨戸のかわり)をおろしたり、台所へ行って、火をもやしたりして、食事の用意を始め、やがて美しい銀器に食物を盛《も》って、主人の女にもこの男にも喰《く》わせた。一体、この男がはいった時に、門はちゃんと閉めてかんぬきもしておいたのである。主人の女は、外界との連絡がないはずであるのに、主人の食物のみか、この男の食物まで用意して持って来ているのである。合点《がてん》のゆかぬ事ばかりだが、お腹が空いているので、気にならないで、たらふく食べた。女も、男の手前など気にせず、思う存分たべている。食べおわると、女房らしい女が後片づけをして、皆連立って去った。すると、主人の女が、その男に門のかんぬきをさせてから、また二人いっしょに寝た。
四
その不思議な女と一夜をあかして、朝になるとまた門を叩く者がある。女は、男を開けにやった。すると、男女が三、四人やって来たが、昨夜の顔触《かおぶれ》とは全然|違《ちが》っている。そして、家の中へはいるとしとみを上げ掃除《そうじ》などをして、かゆと強飯《こわめし》とを主人の女とその男に給仕した。こんな風にして、二、三日暮していた。男は、夢《ゆめ》み心地に女との愛欲生活をたのしんでいた。すると、女が何か外出する用事はないかと訊《き》いたので、ちょっとあると答えると、しばらくして一頭の駿馬《しゅんめ》に、水干装束《すいかんしょうぞく》をした下人が二、三人付いてやって来た。
すると女は、男をその家の納戸《なんど》のような部屋へ案内した。外出用の衣裳《いしょう》が、いく通りも揃《そろ》えてある。どれでも、気に入ったのを着ろという。男は、思いのままに装束して、その馬に乗り、下人を連れて外出した。その馬もいい馬だったが、下人達も後生大事と仕えてくれるのであった。帰ってくると、馬も下人も女主人に何ともいわれないのに、いつの間にか居なくなった。このように、豊かに何の不自由もなく、二十日ばかり暮していた。すると、女がある日、不思議な御縁《ごえん》でいっしょに暮しましたが、あなたもお気に召《め》したから、こんなに長くいらっしゃるのでしょう。そうすれば、私のいうことは、生死にかかわらず聴《き》いて下さるでしょうといった。男は、この生活にも相手の女にも心から魅《み》せられていたから、もちろんです、生かそうとも殺そうともお心次第です、と答えた。すると、女は大変よろこんで、男をいざと言って、奥《おく》の一間へ連れて行った。そして、この男の髪《かみ》へ縄《なわ》をつけて、はたもの(罪人を笞打《むちう》つためにしばりつける刑具《けいぐ》である)に男を後向きにしばりつけた。両足もしっかり、むすびつけた。そして、女は男のように烏帽子《えぼし》を被《かぶ》り水干袴をつけると笞をもってはだかにした男の背を八十ばかり打った。そしてから、気持はどうですといって訊《き》いた。男は、何のこれしきのことと答えると女は満足して、いろいろといたわった。よい食物などもたくさんたべさせた。三日ほどで、笞のあとが、いえると、また同じ室につれて行って、はたものにしばりつけると、今度は、前よりもしたたかに八十打った。血走り肉乱れるほど、はげしい打ち方だった。
五
情容赦《なさけようしゃ》もなく打ちつづけてから(我慢《がまん》が出来ますか)と、いって訊いた。男は、顔色も替《か》えず(出来ますとも)と、答えると、今度
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