てもいいと思う。が、氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬように自分に思われる。先ず手法の点から言って見よう。リアリズムを標榜《ひょうぼう》する多くの作家が、描かんとする人生の凡《すべ》ての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には厳粛な手堅い撰択が行われている。志賀氏は惜しみ過ぎると思われるくらい、その筆を惜しむ。一措も忽《ゆるがせ》にしないような表現の厳粛さがある。氏は描かんとする事象の中、真に描かねばならぬ事しか描いていない。或事象の急所をグイグイと書くだけである。本当に描かねばならぬ事しか描いていないという事は、氏の表現を飽くまでも、力強いものにしている。氏の表現に現われている力強さは簡素の力である。厳粛な表現の撰択からくる正確の力強さである。こうした氏の表現は、氏の作品の随所に見られるが、試みに「好人物の夫婦」の書出しの数行を抜いて見よう。
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「深い秋の静かな晩だつた。沼の上を雁が啼《な》いて通る。細君は食卓の上の洋燈を端の方に引き寄せて其《そ》の下で針仕事をして居
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