志賀直哉氏の作品
菊池寛
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)積《つも》り
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自分は現代の作家の中で、一番志賀氏を尊敬している。尊敬しているばかりでなく、氏の作品が、一番好きである。自分の信念の通りに言えば、志賀氏は現在の日本の文壇では、最も傑出した作家の一人だと思っている。
自分は、「白樺」の創刊時代から志賀氏の作品を愛していた。それから六、七年になる。その間に自分はかつて愛読していた他の多くの作家(日本と外国とを合せて)に、幻滅を感じたり愛想を尽かしたりした。が、志賀氏の作品に対する自分の心持だけは変っていない。これからも変るまいと思う。
自分が志賀氏に対する尊敬や、好愛は殆ど絶対的なもので従って自分はこの文章においても志賀氏の作品を批評する積《つも》りはないのである。志賀氏の作品に就いて自分の感じている事を、述べて見たいだけである。
志賀氏は、その小説の手法においても、その人生の見方においても、根柢においてリアリストである。この事は、充分確信を以て言ってもいいと思う。が、氏のリアリズムは、文壇における自然派系統の老少幾多の作家の持っているリアリズムとは、似ても似つかぬように自分に思われる。先ず手法の点から言って見よう。リアリズムを標榜《ひょうぼう》する多くの作家が、描かんとする人生の凡《すべ》ての些末事を、ゴテゴテと何らの撰択もなく並べ立てるに比して、志賀氏の表現には厳粛な手堅い撰択が行われている。志賀氏は惜しみ過ぎると思われるくらい、その筆を惜しむ。一措も忽《ゆるがせ》にしないような表現の厳粛さがある。氏は描かんとする事象の中、真に描かねばならぬ事しか描いていない。或事象の急所をグイグイと書くだけである。本当に描かねばならぬ事しか描いていないという事は、氏の表現を飽くまでも、力強いものにしている。氏の表現に現われている力強さは簡素の力である。厳粛な表現の撰択からくる正確の力強さである。こうした氏の表現は、氏の作品の随所に見られるが、試みに「好人物の夫婦」の書出しの数行を抜いて見よう。
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「深い秋の静かな晩だつた。沼の上を雁が啼《な》いて通る。細君は食卓の上の洋燈を端の方に引き寄せて其《そ》の下で針仕事をして居る。良人は其傍に長々と仰向けに寝ころんでぼんやりと天井を眺めて居た。二人は長い間黙つて居た。」
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何という冴えた表現であろうと、自分はこの数行を読む度に感嘆する。普通の作家なれば、数十行乃至数百行を費しても、こうした情景は浮ばないだろう。いわゆるリアリズムの作家にこうした洗練された立派な表現があるだろうか。志賀氏のリアリズムが、氏独特のものであるという事は、こうした点からでも言い得ると思う。氏は、この数行において、多くを描いていない。しかも、この数行において、淋しい湖畔における夫婦者の静寂な生活が、如何《いか》にも溌剌として描き出されている。何という簡潔な力強い表現であろう。こうした立派な表現は、氏の作品を探せば何処にでもあるが、もう一つ「城の崎にて」から例を引いて見よう。
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「自分は別にいもりを狙はなかつた。ねらつても迚《とて》も当らない程、ねらつて投げる事の下手な自分はそれが当る事などは全く考へなかつた。石はコツといつてから流れに落ちた。石の音と共に同時にいもりは四寸程横へ飛んだやうに見えた。いもりは尻尾を反《そ》らして高く上げた。自分はどうしたのかしら、と思つて居た。最初石が当つたとは思はなかつた。いもりの反らした尾が自然に静かに下りて来た。するとひぢを張つたやうに、傾斜にたへて前へついてゐた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめつてしまつた。尾は全く石へついた。もう動かない。いもりは死んで了《しま》つた。自分は飛んだ事をしたと思つた。虫を殺す事をよくする自分であるが、その気が全くないのに殺して了つたのは自分に妙ないやな気をさした。」
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殺されたいもりと、いもりを殺した心持とが、完璧と言っても偽ではない程本当に表現されている。客観と主観とが、少しも混乱しないで、両方とも、何処までも本当に表現されている。何の文句一つも抜いてはならない。また如何なる文句を加えても蛇足になるような完全した表現である。この表現を見ても分る事だが、志賀氏の物の観照は、如何にも正確で、澄み切っていると思う。この澄み切った観照は志賀氏が真のリアリストである一つの有力な証拠だが、氏はこの観照を如何なる悲しみの時にも、欣《よろこ》びの時にも、必死の場合にも、眩《くら》まされはしないようである。これは誰かが
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