ると共に自分の地位を築いたわけである。徳川家に関係のある本には、姉川の勝利は神君の力であるというように書いてあるが、そういうひいき目をさし引いても、家康に取っては、正に出世戦争とも云うべきであろう。
姉川合戦の直後、信長が秀吉の策を用いて、すぐ小谷城を攻め落したならば、長政の妻のお市殿には、未だ長女のお茶々は生れていないだろう。結婚したのが、永禄十一年四月だから、生れていたかどうか、多分まだ腹の中にいたのである。すると落城のドサクサまぎれに、流産したかも知れないし、淀君など云うものは、生れて来なかったかも知れん。
つまり秀吉は、後年溺愛した淀君を抹殺すべく、小谷城攻略を進言したことになる。しかし、淀君が居なかったら、豊臣家の社稷《しゃしょく》はもっとつづいたかも知れない。そんな事を考えると、歴史上の事件にはあらゆる因子のつながりがあるわけだ。
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5−86)(「十二ヶ国」等)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「金ヶ崎殿軍」等)を小振りにつくっていま
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