も気苦労だから、自勢だけで沢山だと云った。信長重ねて、朝倉と云う北国の大軍を家康だけに委したとあっては、信長が天下の嘲《あざけ》りを招くことになるから、義理にでもいいから誰かを使ってくれと、ひたすら勧めたので、然らば是非に及ばず、稲葉伊予守貞通(通朝、良通などとも云う)をかしてくれと云った。織田の勢より、ただ一人、海道一の弓取たる家康に撰み出されたる稲葉伊予守の面目、思うべしである。
 稲葉伊予守は、稲葉一徹で美濃三人衆の一人で、斎藤家以来名誉の士だ。茶室で信長に殺されかけたのを、床の間にかかっている韓退之の詩『雲横秦嶺《くもはしんれいによこたわって》』を読んで命を助かった文武兼備の豪傑である。
 戦い果てて後、信長、稲葉の功を賞し、自分の一字をやって、長通と名乗れと云う。稲葉|悦《よろこ》ばずして信長に向って曰く、「殿は盲《めくら》大将にして、人の剛臆が分らないのだ。自分は、上方勢の中では、鑓《やり》取る者とも云われるが、徳川殿の中に加わりては、足手|纏《まと》いの弱兵にて一方の役に立ったとも覚えず、自分の勲功を御賞めになるなど、身びいきと云うもので、三河の人の思わむことも恥し」と。自分の勲功を謙遜し、家康勢を賞め上げるなど、外交手段を心得たなかなかの曲者である。
 浅井朝倉の陣容は、次ぎの通りだ。

  浅井勢
 浅井長政(二十六歳)
  ――三十九万石、兵数約一万――
    第一陣 磯野 員昌《かずまさ》(兵千五百)
    第二陣 浅井 政澄(兵千)
    第三陣 阿閑《あかん》 貞秀(兵千)
    第四陣 新庄 直頼(兵千)
    本陣 長政(兵三千五百)

 朝倉勢(朝倉義景)
  ――八十七万石、兵数二万、姉川に来りしもの一万――
    第一陣 朝倉 景紀《かげのり》(兵三千)
    第二陣 前波新八郎(兵三千)
    本陣 朝倉 景健(兵四千)
               
『真書太閣記』に依ると、浅井朝倉|方《がた》戦前の軍議の模様は、左の通りだ。
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 七日の夜|深《ふ》けて長政朝倉孫三郎景健に面会なし、合戦の方便を談合ありけるは、越前衆の陣取《じんどり》し大寄山より信長の本陣龍ヶ鼻まで道程《みちのり》五十町あり。直《じき》に押しかゝりては人馬ともに力疲れて気衰ふべければ、明暁野村三田村へ陣替ありて一息つぎ、二十八日の晨朝《しののめ》に信長の本陣へ不意に切掛り、急に是《これ》を攻めれば敵は思ひよらずして周章すべし、味方は十分の勝利を得べきなりと申しけるに、浅井半助とて武勇|人《ひと》に許されしものながら、先年久政の勘当をうけて小谷を追出され、濃州に立越え稲葉伊予守に所縁あるを以て暫時かくまはれて居たりしかば、信長の軍立《いくさだて》を能々《よくよく》見知りてありけるが、今度《このたび》織田徳川矛盾に及ぶと、浅井を見続《みつ》がずば弥《いよいよ》不忠不義の名を蒙《こうむ》るべしとおもひ、稲葉には暇乞もせず、ひそかに小谷へ帰り、赤尾美作守、中島日向守に就て勘当免許あらんことを願ひしに、久政きかず。殊に稲葉が家にかくまはれしものなれば、いよ/\疑心なきにあらずとて用ひられざりしかば、両人様々に証拠をとりて詫言《わびごと》申せしゆゑ、久政も黙止《もだ》しがたく、然らばとて免許ありて差置かれけるに、此間《このあいだ》信長陣替の時|丁野《ちょうの》若狭守と共に討つて出で合戦し、織田勢あまた討捕りしかども却て、丁野も半助も久政のにくみを受けながら、遠藤|喜右衛門《きえもん》が能く取りなしけるに依《よっ》て、久政も漸《ようや》く思返し、此頃は傍《そば》近く出勤しけるにより、今日評定の席へも差加へられたり。然るに長政の軍慮を承り、御存じの如く某《それがし》は三ヶ年濃州に罷在《まかりあ》りて信長の処置を見覚えて候ふが、心のはやきこと猿猴《えんこう》の梢を伝ふ如き振舞に候へば三田村まで御陣替あらば必ずその手当を仕《つかまつ》り候ふべし。若《も》し総掛りに軍し給はゞ味方難渋仕り候はんか、今|暫時《しばらく》敵の様を御覧ありて然るべきかと申しけるに、長政|宣《のたま》ふ様、横山の城の軍急なれば、其儘《そのまま》に見合せがたし。敵の出で来るを恐れては勿々《なかなか》軍はなるまじ、その上に延々《のびのび》とせば、横山|終《つい》に攻落《せめおと》さるべし。但し此ほかに横山を援《たす》けん術《てだて》あるべきや。今に於ては戦を始むるの外《ほか》思案に及ばずとありけるを聞て、遠藤喜右衛門然るべく覚え候。兎角する内に、横山の城中の者も後詰《ごづめ》なきを恨み降参して敵へ加はるまじきにもあらず、信長当方へ打入りしより以来《このかた》、心のまゝに働かせ候ふこと余りに云甲斐なし、早く御陣替然るべし。思召の如く替へ
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