長やがて、岐阜に引き上げ、浅井征伐の大軍を起し六月十九日に発向して、浅井の居城小谷に向った。それが姉川合戦の発端である。
戦前記
京都から岐阜に帰って準備を整えた信長は、六月十九日二万有余の大軍を催して、岐阜を立ち、二十一日早くも浅井の本城なる小谷に迫って町家を焼き払った。しかし、浅井が出でて戦わぬので、引き上げて姉川を渡り、その左岸にある横山城を攻めた。そして、横山城の北竜ヶ鼻に陣して、家康の来《きた》るを待った。六月二十七日、家康約五千余騎を率いて来援した。
(家康に取っても、大事な軍《いくさ》であった。信長より加勢を乞われて、家康の諸将相談したが、本多平八郎忠勝、家康に向って曰く、「信長公を安心の出来る味方と思っているかも知れぬが、そうとは限らない。折あらば殿を難儀の軍などさせ戦死をもなさるように工《たく》まぬとも限らない。今度の御出陣|殊《こと》に大事である」と。家康その忠言を欣《よろこ》び、わざと多くの軍勢を引きつれずに行ったのだ。出先で敗れても、国許が手薄にならぬ為の用意であった)
長政も、越前に使を派して朝倉の援兵を乞うた。然るに、義景《よしかげ》自ら出張せず、一族孫三郎|景健《かげたけ》に、約一万の兵を与えて来援せしめた。
長政は、朝倉に対する義理から、……好意から信長に叛《そむ》いているのに、肝心の朝倉義景は、この大事な一戦に自ら出向いて来ないのである。隣の家《うち》が焼けている裡《うち》は、まずまずと云う考えなのである。尤も、そうした暗愚の義景を頼りにしたのは、長政の不覚でもあるが……。
長政、朝倉の来援を得て、横山城を救わんとし、二十五日小谷城を出で、その東|大寄《おおよせ》山に陣を張った。翌二十八日には、三十町も進み来り、浅井軍は野村に朝倉勢は三田村に展開した。
かくて、織田徳川軍は姉川を挾んで浅井朝倉軍と南北に対陣した。
今南軍即ち織田徳川方の陣容を見るに、
織田信長(三十七歳)
――二百四十余万石、兵数六万、姉川に来りしものは、その半数――
第一陣 阪井 政尚《まさひさ》┐
第二陣 池田 信輝│
第三陣 木下 秀吉│
第四陣 柴田 勝家├(兵各三千)
第五陣 森 可成《よしなり》│
第六陣 佐久間信盛┘
本陣 信長(兵五千余)
横山城への抑え
丹羽 長秀(兵三千)
氏家 直元(兵千)
安藤 範俊《のりとし》(兵千)
徳川家康(二十九歳)
――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来りしもの約五千――
第一陣 酒井 忠次(兵千余)
第二陣 小笠原|長忠《ながただ》(兵千余)
第三陣 石川 数正(兵千余)
本陣 家康(兵二千余)
外に信長より家康への加勢として
稲葉 通朝(兵千余)
徳川家康の部将中、酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけは、そうでない。小笠原は、元、今川家の大将で武功の勇将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方《かみがた》にでも遠征したら、その明巣《あきす》に遠州を掠取《かすめと》らんと云う肚《はら》もないではない。家康もその辺ちゃんと心得ているので、国には置かず、一しょに連れて来たわけである。つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来、戦争に使おうと云うのである。それだけの小笠原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも亦《また》格別であった。
(『武功雑記』に、「此度《このたび》権現様小笠原与八郎を先手に被《おお》せ付けられ候《そうろう》。与八郎下心に挾む所ありと雖《いえど》も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。其《その》時節与八郎家来渡辺金太夫、伊達与兵衛、中山是非介働き殊に勝《すぐ》れ候て三人共に権現様より御感状下され候。渡辺金太夫は、感状の上に吉光の御腰物下され候事也」とある。この小笠原は、小田原の時亡んだ。恐らく現在の小笠原長幹伯は、その一族だろう)
家康が、到着した時、信長は遠路の来援を謝しながら、明日はどうぞ弱からん方を助けてくれと云った。つまり予備隊になってくれと云うわけだ。家康嫌って、打ち込み(他と入り交っての意ならん)の軍せんこと、弓矢の瑕瑾《かきん》であるから、小勢ではあるが独立して一手の軍をしたいと主張した。もし望みが叶《かな》わなければ、本国に引き返さんと云った。信長、左様に仰せられるのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたい。尤も北国の大敵に向わせられるには、御勢ばかりでは、あまりに小人数である。信長の勢から、誰か撰《えら》んでくれと云った。と、家康は、自分は小国で小勢を使い習っているから、大勢は使えないし、心を知らぬ人を下知するの
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