の抑え
丹羽 長秀(兵三千)
氏家 直元(兵千)
安藤 範俊《のりとし》(兵千)
徳川家康(二十九歳)
――六十余万石、兵数約一万六千、姉川に来りしもの約五千――
第一陣 酒井 忠次(兵千余)
第二陣 小笠原|長忠《ながただ》(兵千余)
第三陣 石川 数正(兵千余)
本陣 家康(兵二千余)
外に信長より家康への加勢として
稲葉 通朝(兵千余)
徳川家康の部将中、酒井石川は譜代だが、小笠原与八郎長忠だけは、そうでない。小笠原は、元、今川家の大将で武功の勇将である。家康に従ってはいるが、もし家康が信長へ加勢として上方《かみがた》にでも遠征したら、その明巣《あきす》に遠州を掠取《かすめと》らんと云う肚《はら》もないではない。家康もその辺ちゃんと心得ているので、国には置かず、一しょに連れて来たわけである。つまり、まだ馴れない猛獣に、くさりをつけて引っぱって来、戦争に使おうと云うのである。それだけの小笠原であるから、武功の士多く、姉川に於ての働きも亦《また》格別であった。
(『武功雑記』に、「此度《このたび》権現様小笠原与八郎を先手に被《おお》せ付けられ候《そうろう》。与八郎下心に挾む所ありと雖《いえど》も、辞退に及ばずして、姉川にて先手致し勝利を得申し候。其《その》時節与八郎家来渡辺金太夫、伊達与兵衛、中山是非介働き殊に勝《すぐ》れ候て三人共に権現様より御感状下され候。渡辺金太夫は、感状の上に吉光の御腰物下され候事也」とある。この小笠原は、小田原の時亡んだ。恐らく現在の小笠原長幹伯は、その一族だろう)
家康が、到着した時、信長は遠路の来援を謝しながら、明日はどうぞ弱からん方を助けてくれと云った。つまり予備隊になってくれと云うわけだ。家康嫌って、打ち込み(他と入り交っての意ならん)の軍せんこと、弓矢の瑕瑾《かきん》であるから、小勢ではあるが独立して一手の軍をしたいと主張した。もし望みが叶《かな》わなければ、本国に引き返さんと云った。信長、左様に仰せられるのなら、朝倉勢を引き受けて貰いたい。尤も北国の大敵に向わせられるには、御勢ばかりでは、あまりに小人数である。信長の勢から、誰か撰《えら》んでくれと云った。と、家康は、自分は小国で小勢を使い習っているから、大勢は使えないし、心を知らぬ人を下知するの
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