江《ごう》州に遊んで常に遠藤と親しむ、故によくその容貌を知っている。遠藤戦いある毎に、必ず魁《さきがけ》殿《しんがり》を志す、故に我必ず彼を討ち取るべし」と。果して其の言葉の通りであった。
喜右衛門は、信長と戦端を開く時には、浅井家長久の為めに極力反対したが、いざ戦うとなると、壮烈無比な死に方をしている。浅井家第一の忠臣と云ってもいいだろう。
浅井方の大将安養寺三郎左衛門は、織田と浅井家の同盟を斡旋《あっせん》した男だ。長政を落さんとして奮戦中馬を鉄砲で射られて落馬したので、遂に擒《いけど》りにせられて信長の前に引き据えられた。信長は安養寺には好意を持っていたとみえ「安養寺久しく」と云った。安養寺、言葉なく、「日頃のお馴染に疾《と》く疾く首をはねられ候え」と云ったが、「汝は仔細ある者なれば先ず若者共のとりたる首を見せよ」と云った。つまり、名前の分らない首の鑑定人にされたわけだ。小姓織田|於直《おなお》の持ち来れる首、安養寺見て「これは私の弟甚八郎と申すものに候」と云った。また、小姓織田於菊の持ち来れる首「これは私の弟彦六と申すものにて候」と申す。信長、「さてさて不憫《ふびん》の次第なり、汝の心底さぞや」と同情した。
竹中久作が取りたる首を見すれば、
「之れは紛れもなく喜右衛門尉にて候。喜右衛門尉一人|諫《いさ》めをも意見をも申して候。其の他には誰一人久政に一言申すもの候わず。浅井の柱石と頼みし者に候」と云った。
其の後信長、安養寺に、此の勢いに乗って小谷に押しよせ一気に攻め落さんと思えど如何と聞いた。安養寺笑って、「浅井がために死を急く某《それがし》に戦の進退を問わせ給う殿の御意こそ心得ぬが、答えぬのも臆したるに似ているから答えるが、久政に従って小谷に留守している士《さむらい》が三千余人は居る。長政と共に退却した者も三千余人は候うべし。其の上兵糧、玉薬《たまぐすり》は、年来貯えて乏しからず、半年や一年は持ちこらえ申すべし」と答えた。
この安養寺の答で、秀吉が小谷城進撃を進言したにも拘わらず、一先ず軍を返した。その後、浅井は尚三年の久しきを保つ事が出来た。或書に、此の時、秀吉の策を用い、直ちに小谷を攻撃したならば、小谷は一日も支える事が出来なかったのに、安養寺が舌頭に於て信長に疑惑の思いを起したのは、忠節比類無しと褒めてある。
信長は、安養寺が重ねて「首を
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