十日、正行は和泉の和田氏等の軍を以て紀伊に入り、隅田城を急襲して居る。これは東条と吉野との連絡を確実にする為であって、大楠公の赤坂再挙の戦略と全然同一のものである。果然これを機会として京畿の官軍は一時に蜂起し、紀伊熊野諸豪多く官軍に応じ、和泉摂津にも之に響応する者が少くなかった。此の報を得た賊軍側は大いに駭《おどろ》き、細川|顕氏《あきうじ》に軍を率いしめ、八月十九日に大阪天王寺を出発せしめて居るが、彼は泉州に於ける優勢な楠勢にはとても敵せぬと、京都に報告して居る。小康を得て居た当時の京都の人心は為に恟々《きょうきょう》として畏怖動揺したとみえる。洞院|公賢《きみかた》は其の日記に此の仔細を記して居るが、京都の諸寺一時に祈祷の声満つると云う有様であった。
然るに楠軍は一旦兵を河内に還して居る。そして九月九日に八尾城を攻撃し、十七日には河内の藤井寺附近に於て、大いに顕氏の軍を破り、正行は初陣の武名を挙げたのである。
『細々要記』に「京都より細川陸奥守以下数十人河内発向藤井寺に陣す。其夜正行等不意に寄せ来り合戦。京勢敗北死人数を知らず」とあるから、今や正行怖る可しと痛感したようだ。
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