のり》は東条に留守軍となって居た。吉野朝廷からは北畠親房が老躯を提《ひっさ》げ、和泉に出馬し、堺にある師泰に対抗して居た。亦四条隆資は、河内等の野伏の混成隊を以て、生駒山方面の敵を牽制して居る。『太平記』は正行の奮闘は詳説するくせに、此等の諸軍の動静を閑却して居るが、師泰なんか四条畷戦後、北畠軍に大いに進軍を防遏《ぼうあつ》されて居るのである。
 正行直属の兵は凡そ一千人位で、当時大和川附近の沼沢地に陣して居た師直の本営を掩撃す可く突撃隊を組織した。
 五日早旦、恐らく午前六時頃だろう。正行は自ら突進隊五百騎を提げて、一直線に北に強行突破を企てて居る。敵の前哨は全く蹂躙《じゅうりん》されて、約半里も北に圧迫されて居る。此の時四条隆資軍に牽制されて居た生駒山方面の敵は、この有様を俯瞰して、四条軍を捨ててどっと山を下り、楠軍の後続部隊に躍りかかった。つまり思わぬ新手の出現で、楠軍の突進隊は後方から切断された訳だ。
 此の時正行の手兵僅かに三百。なおも果敢な肉迫戦を続けて行く中、流石の師直の本陣もさっと左右に靡《なび》いた。踴躍して飛び込むと、早くも師直は本営を捨て、北方、北条村に退かんとして居る。恰も此の辺は沼沢地であり、走るに不便だ。追うこと暫くして、其の間半町、将《まさ》に賊将を獲んとした時、賊将|上山《かみやま》六郎左衛門、猝《いつわ》って師直の身代りになって討死した。
 その為に大分暇をとった。それでも執拗に追撃の手をゆるめなかったが、突然敵方に強弓の一壮漢が現れた。九州の住人、須々木《すずき》四郎と名乗って雨の如く射かけたから堪らない。
 楠次郎は眉間をやられ、正行も左右の膝口三ヶ所、左の眼尻を深く射抜れた。
 午後四時頃であろう。野崎の原頭《げんとう》、四条畷には群像の如き三十余騎の姿が、敵軍に遠く囲まれながら茫然として立ちすくんで居る。長蛇を逸した気落ちが、激戦三十余合で疲労し切った身体から、総ての気力を奪い去って居る。
 飯盛|颪《おろし》に吹き流される雲が、枯草が、蕭条《しょうじょう》として彼等の網膜に写し出され、捉える事の出来ない絶望感が全身的に灼《や》きついて来たのであろう。
 正行は、「嗟《ああ》、我事終れり」と嘆じて、弟正時と相刺し違えて死んだ。相従う十三余士、皆|屠腹《とふく》して殉じた。
 正行戦死の報が京都に達すると、北朝では歓呼万歳を唱えて喜んだと云う。可なり嬉しかったんだろう。それだけに此の悲報は南朝にとっては大打撃であった。為に後村上天皇は難を賀名生《あのう》に避けられ、吉野の行宮は師直の放火によって炎上し、南朝の頽勢は既に如何ともし難い。
 恐らく正史に於ける正行の活動は数年に過ぎない。亦正成にしても、大体そんなとこである。それで今日までその純忠を謳《うた》われるのであるから、人間としてもまずこれ程立派な父子は、日本史中古今稀である。その正成父子に対する崇拝が反尊氏思想となり、日本一の不忠者のように云われ、六百年の後まで、中島商相にまで祟《たた》るのである。然し、当時正成の策戦を妨害して、正成に湊川で無理な軍をさせ、事を誤った公卿の子孫である、貴族院の子爵議員などが、今更尊氏の攻撃をするのはおかしい。



底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
   1987(昭和62)年2月10日第1刷
※底本は、物を数える際に用いる「ヶ」(区点番号5−86)(「十数ヶ国」)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年11月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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