飛脚が来たのである。秀吉は、外に洩れるといけないからその飛脚を殺せと云った。如水は、手柄こそあれ殺すべきものにあらずと云って、秀吉に内緒でかくまったと云うが、寛仁な秀吉が、そんな事を云い出すのだから、可なりあわてていたに違いない。
 むろん、毛利には兇報を秘密にして、和を講じた。和成った後、兇報を知らして、かくの次第だが追撃をするかどうかと訊いた。毛利の方でも、一寸《ちょっと》迷ったが例の小早川|隆景《たかかげ》、秀吉の大量を知って、此上戦うの不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなくして京師に走《は》せ上ることが出来た。その上毛利の旗さしものを借りて、毛利の援兵があるように見せかけることにした。当時秀吉の居城は、姫路である。秀吉麾下の者にとっては、故郷である。だが秀吉は姫路を通るとき、家へ立ち寄るものあらば斬るべしと厳命した。秀吉の軍兵が光秀の予期よりも早く淀川を圧して攻め上って来たのも故あるかなである。本能寺の兇変が、天正十年六月二日で、山崎合戦は同じく十三日である。秀吉の用軍の神速知るべしである。
 備中の陣に、兇報が来たとき、黒田如水は秀吉に悔みを云うかわりに、するすると傍《そば》へ寄って、その膝を叩き、
「御運の開けさせ給う時節到来せり、よくせさせ給え!」
 と云った。秀吉が、心の底で思っていることを、あまり露骨に云ったので秀吉は、生涯如水を信頼しながらも、一味|憚《はばか》るところがあったと云われている。
 秀吉だって、信長の死はわが開運のチャンスと思ったに違いない。光秀は、私憤を利用して、無理にそう云うチャンスを作ろうとし、秀吉は、偶然そう云うチャンスが到来したので、信長の死をチャンスだと考える点では、同じであっただろう。
 だから、『太閤記』の作者は、
「天下順に帰するや山崎の一戦なり。天下逆に帰するや山崎の一戦なり。順と云ふも至順にあらず、逆と云ふも至逆にあらず、順逆ともに似て非なるものなれども、これを明らかにする鑑《かがみ》なく、これを察《さと》らする識《さとし》なく、英雄一個の心智を以て、四海万姓を弄《もてあそ》ぶ事、そも/\天の意なるや」となかなかしゃれた事を云っている。
 秀吉の軍勢は、二万六千余で、先陣はわが戦国時代のクリスチャン・ゼネラル高山右近であった。第二陣は中川瀬兵衛、第三陣は池田|勝入斎《しょうにゅうさい》だ。
 勝入斎は、信長とは乳
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