弱して、ついにはそのために殪《たお》れるようなことがあれば、かの盗賊は形式はともかく、明らかに夫人を殺したのです。また、三人の愛児が受けた悪い影響も、金銭をもっては償いがたい、大なる被害に相違ありません。その上、若杉さん当人が受けた不快な圧迫や不安も、無形ではあるが、重大な被害には相違ありません。
若杉さんは、生れて初めて、罪の及ぼす影響を、骨身に滲みるほど感じました。
それは、若杉裁判長の、今まで懐いていた罪悪観を、根底から覆してしまいました。彼は、被害の翌朝、世の中の犯罪者一般に対する憎悪が、初めて自分の心の中に湧き出るのを感じました。が、若杉さんは、自分の感情の転換が、あまりに自分本位の動機から出ていることを心苦しく思いました。が、転換したのは、若杉さんの感情ばかりではありませんでした。若杉さんの思想もある転換を示して、最初に変った感情をぐんぐん裏づけていきました。
月曜日の午前、予定の通り、ジゴマ中学生の判決言い渡しがありました。たとえ無罪ではなくとも、執行猶予は必ずあるというので、被告の肉親の人たちは、一種の安心をもって傍聴に行きました。
が、当日に限って、裁判長は少し蒼白な顔をしていました。そして判決文も、いつものように朗々とは響きませんでした。
「被告|何某《なにがし》を禁錮一年に処す」という主文の宣告があった後、いくら待っても、執行猶予の言い渡しが続きませんでした。被告の顔にも、傍聴人の顔にも、深い失望の色が浮びました。
が、若杉裁判長は、そんなことには一向頓着がないように、理由書の朗読が終ると、ドアを排してさっさと退席してしまいました。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋社
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:久保あきら
1999年9月19日公開
2005年10月12日修正
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