、その犯人が、規律の厳粛で評判のよい、県立中学の生徒で、しかも級長をしている優等生で、その上色白の美少年であったというのですから、世人を驚かしたのも無理はありません。
 犯罪の手段は、やっぱり紋切型の通り、その少年は、△△△市の町端れにある、ある富豪の家に脅迫状を送って、「何月何日の夜に、鎮守の八幡の大鳥居の下へ、金二百円を新聞包みにして置くこと。もし実行しないならば、全家を爆裂弾をもって焼き払うべし」というたわいもないことを並べたてたのです。その家でもどうせ性質《たち》の悪い悪戯だろうということで、そのまま打ち捨てておきますと驚くじゃありませんか、丁度その約束の日の前夜に、その富豪の家の門前に当って、一大爆音がきこえたというのです。が、これはおそらくこの事件を伝えた新聞紙の誇張であったのでしょう。当の犯罪者の少年は、癇癪玉《かんしゃくだま》を一緒に、三つばかりぶつけたといっておりますから、そんな大した音のしなかったのは確かです。脅迫状のために、内心いくらかびくついていた富豪の一家が、この爆声を聞いて、色を変じたというのは、あながち誇張ではありますまい。捨てておいては一大事というので、早速警察へ人をやりまして、脅迫状が舞い込んでからの一部始終を訴え出でました。長い間、事件が無くて、閑散に苦しんでいた警察は、この訴えをきいて蘇《よみがえ》ったように活動を始めました。脅迫状に指定された翌晩が来ると、警察署長以下、警部一名、刑事巡査六名がことごとく変装して、鎮守の森を遠巻きにしたそうです。そして柔道初段という刑事と、撃剣が三級という腕節《うでっぷし》の強い刑事とが、選ばれてその大鳥居の陰に身を隠しました。そして、いかにも札束でも入っていそうな新聞包みを、その鳥居のちょうど真下に置きました。
 その晩は非常にいい月夜で、刑事たちも一種ロマンチックな心持で、ジゴマ団の襲来を待っていました。すると、刑事たちがいい加減退屈した頃に、爪先上りになった参詣道を、マントを着た一人の男が急ぎ足に上ってきたそうです。刑事たちは、固唾《かたず》をのみました、そして、少しでも、その男に不審な挙動がありましたら、すぐ飛びかかろうという、身構えをしました。すると、その男は、鳥居の下まで来て、足を止めたかと思うと、一度あたりを見回してから、夜目にもしるきその新聞包みをそっと取り上げたではありませんか。柔道の方の刑事が、獅子が獲物にでも飛びつくような勢いで、電光のように飛びかかりました。刑事は、むろん一大格闘を予期して飛びついたのですが、案外にも刑事の強い腕には、女のような華奢《きゃしゃ》な身体が触りました。撃剣の方の刑事が吹いた呼子で集まった署長以下の五人は、この少年を一目見ると、皆おやおやという顔をしました。
 が、その弱々しい少年が、この恐喝取財未遂の犯人に相違ありませんでした。
 その少年が、轟々たる世評のうちに、公判に付せられたのは申すまでもありません。全体、未成年者でもあるし、微罪不検挙になるはずであったのですが、この少年が、癇癪玉でもって実際に恐喝したということが、この少年のために、非常に不利な結果を及ぼしました。
 が、この少年が予審で有罪になり、公判に付せられることになっても、この少年の同情者は、あまり失望しませんでした。公判となれば裁判長は若杉さんだ、実刑を課するようなことは決してあるまいと、皆が思っていたからです。
 第一回の公判が開かれました。若杉裁判長の冒頭の尋問には、被告に対する溢れるような同情が見えました。被告の少年も、臆面もなく犯罪事実を述べたてました。そして、少年の無鉄砲さが、時々裁判長を苦笑させました。実際、この少年は、冒険譚《ぼうけんだん》などにかぶれた少年が往々無鉄砲なことをやるのと同じような意味で、しらずしらずこの大それた犯罪に陥ったようです。要するに、少年に特有なロマンチックな傾向が、つい邪道に陥ったのに過ぎませんでした。若杉裁判長は、少年の心理に、十分同情することができました。だから、立会の検事が、少年の心理に少しの理解を持たない峻厳な論告をした時、どうしても、心のうちで首肯することができませんでした。
 弁護士の熱烈な弁護をきかない前から、執行猶予を与えるということは、裁判長の肚の中では、もうきまっていたらしいです。弁護士は、二時間に近いほどの雄弁を振いました。弁護士の弁護の力点はなんでも、この少年の犯罪は、これ少年自身の罪にあらずして、社会の罪である。換言すれば、教育家と活動写真との罪であるといったふうな主旨でした。が、実際裁判官の眼下に、蒼くなって、神妙に控えている少年を見た時は、誰でも憐憫の情を催さずには、いられませんでしたろう。色白の丸顔で、愛くるしい少年でした。実際、この少年が、ほんの悪戯《いたずら》でやったことを、警察署が大騒ぎをやって恐喝取財という大事件にこさえ上げた観がないでもありませんでしたから。
 この時、若杉裁判長は、弁護士の弁論をききながら、自分の少年時代を回想していました。すると友達の悪太郎に使嗾《しそう》せられて、隣村の林檎畑《りんごばたけ》へ夜襲《ナイトレーデ》を行ったことを、歴然と思い出しました。それは少年の心をわくわくさせるようなロマンチックな冒険でした。それは、法律的に解釈すれば、立派な野外窃盗でした。が、少年時代に、ともすれば誰でも行いやすい奔放な自由な冒険的な悪戯を、ことごとく犯罪視することが、果して正当なことでしょうか。実際、若杉裁判長の心は、この少年に対する同情でいっぱいでありました。むろん、優等生で級長であったという事実も、裁判長の心を動かしたに違いありません。
 判決言い渡しの日は、この次の月曜日ということになって、法廷は閉じられました。
 翌日の新聞紙は、法廷の光景を伝えると同時に、少年が執行猶予の恩典に浴すべきことを、正確なる事実として、予想してありました。被告の少年に対する同情者も、またこのことについては少しの疑念も懐いておりませんでした。
 ところが、その判決があるという、月曜日の三日前、即ち金曜日の晩に、若杉裁判長の身に、偶然ある事件が起りました。
 と、いうのは、その金曜日の晩、それはなんでも三月の何日かに当っていました。若杉さんの家では、産後間もない夫人がまだ産褥《さんじょく》を離れていない時でした。もう男の子三人のお母さんでしたが、いつもお産が長びくので、産後の衰弱は、傍《はた》の見る目も痛々しかったほどです。でその晩も、常ならば夜遅くまで騒ぎ回る男の子も、宵から強制的に寝かされていました。そして若杉さんだけは、次の茶の間に身動きもせずに、寝ている妻に時々言葉を掛けながら、書斎で十二時頃まで、書見に耽《ふけ》っていましたが、十二時を打つを合図に、下女がその部屋に敷いて置いた床の中へ入りました。その時次の間の妻に、言葉を掛けましたが、もう寝てしまったと見えて返事はありませんでした。
 幾時間経ったでしょう。若杉さんは、ふと目をさましました。すると、夫人が寝ている茶の間とは反対の側の居間の方から、コトコトという音がきこえてきました。若杉さんは、大方鼠どもが、居間の棚のうえを駆け回っているのだと思って、再び目を閉じましたが、その物音は、うるさく続いてきました。
 が、いつもは鼠が居間で暴れることはないはずだのにと考えていると、若杉さんはようやく、鼠が暴れる原因がわかりました。それは、妻の産見舞として、到来したたくさんの菓子箱や果物籠などを、棚の上に積み重ねてあったことです。それと気がつくと、若杉さんは声を出して、鼠を追おうと思いましたが、次の間に寝ている妻をおどろかしてはならぬと気がつくと、そっと自分で床を抜け出して、枕元に袖だたみにしてあった着物を着流し、寝るときに消しておいた電灯を捻りました。そして妻を起さぬようにと抜き足して、居間の方へ近づいて、襖《ふすま》を開けました。書斎の電灯の光が開いた襖の間から次の間を照しましたが、それはほんの中央部だけでした。若杉さんは、なんの気なしに次の間へ足を踏み込みました。が、その刹那、ただならぬ気配が、電灯の光の及ばない箪笥《たんす》の置かれた片隅でいたしました。人だ泥棒だと、若杉裁判長は、電気に打たれたようにそこに立ち尽しました。すると、その闇の中から頑丈な一人の大男が、すっくとばかり、若杉さんの目の前に立ちました。実際、若杉さんは、今まで被告函の中に畏《かしこ》まっている大人しい窃盗や強盗や殺人犯なら、幾人見たかわかりません。たいていは、ぺこぺこ頭を下げて、神妙に縮み上っている男ばかりでした。が、今宵若杉さんの前に立っている本当の泥棒は、そう大人しい人間ではありません。見つけられたからは、居直ってやろうという肚を、ありありと見せていました。そこには、裁判官と被告という関係の代りに、赤裸々な人間同士の力ずくの関係しか、予期せられませんでした。一秒、二秒、三秒、泥棒の方でも、動きませんでした。若杉さんの方でも動きませんでした。若杉さんは、全身を押し詰まされるような名状しがたい不快な圧迫を感じていました。が、その中でも、若杉さんの理性は、懸命の力をこめて、善後策を講じていたのです。男の意地としても、裁判官の威厳を保つためにも、泥棒ぐらいは取り押えることが、必要でした。が、その格闘の恐ろしいものの音が、産褥にある妻に与える激動、また居間の向うの六畳に寝ている、幼い三人の愛児に与えるおどろきと危険とを考えると、若杉さんの手は、どうしても延びなかったそうです。若杉さんは、この泥棒に相当の金をやって無事に帰ってくれと哀願しようとさえ考えたくらいです。が、それも裁判官としては、あまりに威厳のないことでした。その時に、ふと「泥棒は逃せばよい」という考えが浮びました。若杉さんは、泥棒の不意の襲撃を避けるために、二、三歩後へ退きながら「わあーっ」と力限りの大声を出しました。が、その声は、まったく予期しない結果をひき起しました。若杉さんは、自分の声が終るか終らぬかに、次の部屋から夫の声に怯《おび》えた妻の恐ろしい悲鳴をききました。それと、同時に居間の向うの部屋からは三人の愛児が、おどろいて泣き出しました。
 親子五人の声におどろいたと見え、泥棒はいつの間にかいなくなっていました。むろん、一物《いちもつ》も盗んではいませんでした。
 が、衰弱した身体《からだ》にそうした激動を受けた夫人は、急に高熱が出たのも無理はありません。その翌日は、四十度に近い熱が一日続きました。その上、極度に過敏になった夫人の神経は、些細《ささい》な物音にも怯えるようになりました。主治医は、夫人の生命そのものについても、憂慮を懐くようになりました。
 その上、三人の愛児までが、その夜のできごとがあって以来、妙にものに怯える臆病な子供になりました。
 若杉さん自身も、あの泥棒と相対峙《あいたいじ》した一分間ばかりの、息も詰まるような、不快な、不安な圧迫から、なかなか抜けきることができませんでした。
 若杉さんは、盗賊に見舞われた不快な印象を、まざまざと頭の中に浮べながら、こういうことを考えました。自分は学校を出てから十四、五年の間、罪ということばかりを、考えてきた。そして、その罪に適当な刑罰を課することを、自分の職責としてきた。が、実際自分は本当に罪ということを正当に考えてきたであろうか。それは、あまりに罪を抽象的に考えてきたのではあるまいか。罪人の側からのみ、罪を考えていたのではあるまいか。自分の目の前に畏まっている被告が、いかにも大人しく神妙なのに馴れて、彼らが被害者に及ぼした恐ろしい悪勢力については、なんの考慮をも費やさなかったのではあるまいか。
 そう考えてくると、若杉さんは、自分の過去において下した判決の基礎を為した信念が、だんだん揺《ゆら》いでくるのを感じました。若杉さんを襲った賊、それは罪名からいえば、窃盗未遂でした。が、一家に及ぼした悪影響を考えれば、身の毛もよだつほどです。夫人が、それから受けた激動のために発熱し、その発熱のために衰
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