。が、それも裁判官としては、あまりに威厳のないことでした。その時に、ふと「泥棒は逃せばよい」という考えが浮びました。若杉さんは、泥棒の不意の襲撃を避けるために、二、三歩後へ退きながら「わあーっ」と力限りの大声を出しました。が、その声は、まったく予期しない結果をひき起しました。若杉さんは、自分の声が終るか終らぬかに、次の部屋から夫の声に怯《おび》えた妻の恐ろしい悲鳴をききました。それと、同時に居間の向うの部屋からは三人の愛児が、おどろいて泣き出しました。
 親子五人の声におどろいたと見え、泥棒はいつの間にかいなくなっていました。むろん、一物《いちもつ》も盗んではいませんでした。
 が、衰弱した身体《からだ》にそうした激動を受けた夫人は、急に高熱が出たのも無理はありません。その翌日は、四十度に近い熱が一日続きました。その上、極度に過敏になった夫人の神経は、些細《ささい》な物音にも怯えるようになりました。主治医は、夫人の生命そのものについても、憂慮を懐くようになりました。
 その上、三人の愛児までが、その夜のできごとがあって以来、妙にものに怯える臆病な子供になりました。
 若杉さん自身も、あ
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