「もちろんですとも」と、イワノウィッチは自分ながら、落着き過ぎると思うほど、落着いて答えた。そして、
「これが我々の最後の晩です」と付け加えた。が、リザベッタは淋しい微笑をもらしたばかりで、すぐ滅入ってしまった。
「あなたは、どこかへ逃げないのか? モスクワか、ペトログラードかへ」と、イワノウィッチが彼女に対して、深い愛情を表しながらきいた。
「モスクワ! ペトログラード! 私の故郷は、ワルシャワのほかには、どこにもない」と答えると、彼女は急に深い感傷的な興奮にとらわれながら、イワノウィッチの胸に、彼女の頭を埋めようとした。
その時である。この部屋のドアを、表から軽くノックする音がきこえた。彼女は、気軽に、
「ローナかい」と呼びかけた。彼女の召使いの老婆は、その日の夕方から、外出していたのであった。
「いや、ダシコフだよ」と、こう声がするかと思うと、鍵の掛っていなかったドアは、激しく押されて、驚愕したイワノウィッチとリザベッタとの眼前に、大尉ダシコフは、その長大な体躯を現したのである。それを見たリザベッタは、軽い叫声を挙げながらよろよろと後退りして、ソファの上に倒れてしまったのである。
イワノウィッチとダシコフの二人は、そこに永久に融和しがたき敵として、睨み合いながら突っ立ったのである。
「イワノウィッチ! わしは、今何もいわない。ただ、命令する! お前の兵営に帰れ! お前の義務が、それを要求するのだ、帰れ!」とダシコフは、唇を震わしながら怒鳴った。
イワノウィッチの顔も、憤怒ではち切れそうに見えた。彼の顔は、みるみる蒼白《まっさお》に転じかけた、が彼の心のうちに、最後の一夜だけ、女を競争者から確保しようという要求が、烈々として火のように燃え始めた。彼は、剣※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《けんは》を砕《くだ》けよと、握りしめながら、
「あなたの義務も、やはりそれを、要求するのだ、お帰りなさい」
「お前こそ」
「あなたこそ」
そこには、もう階級が存在しなかった。ただリザベッタとの、戦場に出ずる前の最後の――文字通りに最後の会合を、自分が独占しようとする必死《デスペレート》な競争の敵対関係のみが、存在していた。
ダシコフは自分の腕力を信じていたらしかった。彼は突然、イワノウィッチに躍りかかりながら、その首筋を掴んで、ドアの方へ引きずって行こうとした。怖ろしい格闘が起った。力において劣ったイワノウィッチは、敵のために、力いっぱい首筋を絞めつけられながら、ドアにぐいぐいと押さえつけられた。ダシコフは、もう自分の完全な勝利を信じていた。
「どうだ! わしは自分の命令を、完全に遂行する力を持っているのだ。本当の力を持っているのだ」彼はやや息を切らしながら、こう叫んだ。そして完全にイワノウィッチを室外に放逐するための、最後の努力をしようとしていた。その瞬間である、偶然自由を得たイワノウィッチの右の手は、自分の腰に吊した拳銃の革袋を探っていたのである。
ちょうどダシコフが、イワノウィッチを室外に引きずり出した時、奇妙に押し潰されたような拳銃の音が響いたかと思うと、大きいダシコフの身体がよろよろと室内に転げ込んだまま、激しい音をさせながら、そこに、へたばってしまった。そしてすぐそれを追うように、これもよろよろとしたイワノウィッチの蒼白《まっさお》な顔が現れた。イワノウィッチは、しばらくは、ダシコフのびくびくする四肢を、見つめながら茫然と立っていた。ダシコフの上着についた血のにじみが、みるみるうちに大きく広がっていく、蒼白に変っていく大尉の顔を見ていると、深い悔恨が、だんだんイワノウィッチの心を蝕《むしば》んでいった。
イワノウィッチは、悔恨のほかには何物もないような気持になって、軽い戦慄を覚え始めたのである。
ふと気がつくと、リザベッタは、先刻から興奮に痛められた神経が、最後の銃声によって止めを刺されたと見え、卒倒したまま蒼白な顔を電気の光に晒《さら》しているのであった。
イワノウィッチの心には、悔恨の根がいよいよ深く入っていった。彼は善良な学生であり、愛国的の熱情を湧かしていた自分の近い過去が思い出された。しかもその自分が、戦争に行く前夜に、上級の将校を殺したということが、彼には、もう恐ろしい罪悪として、心のうちにひしひしと感ぜられ始めてきた。
彼は、やや震えている自分の右の手にしっかりと拳銃を掴み直して、自分の咽喉へ擬したのである。
が、考えてみると、ここで命を捨てるのは、かなりにばからしいことであった。もう独軍の重砲弾が、盛んにワルシャワの外郭《がいかく》を見舞っている。自分は、夜が明ければ、この鏖殺的《おうさつてき》な砲弾の洗礼を受くべく戦場へ向うのである。拳銃よりも、敵の巨砲の方が自殺の凶器としてはど
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