令はしないよ。この命令には、ちゃんと賞罰が付いているのだ。イワノウィッチ君、お前はサン・ジョルジェ十字勲章を欲しくはないか。年金の付いたやつだよ。一年に三百ルーブルの年金の付いたやつだよ。わしはこの連隊の副官だ。いいか、勲章の申請は、わしの思う通りになるのだ。どうだイワノウィッチ君! 安っぽい歌劇の歌手よりも、十字勲章の方を選んだらどんなものだ」こういいながら、ダシコフは、ふたたび哄笑したのである。
 が、若いイワノウィッチには、恐ろしい激動があったばかりである。彼には、まだ正義の心が、何物にも紛《まぎ》らされないほど、明らかに残っていた。ことに、彼から情人リザベッタを、権力と手段とで奪って行こうとするダシコフの態度に対する憎悪が、旺然《おうぜん》と湧いてくるのを制することができなかった。
「どうだ、イワノウィッチ君!」
 ダシコフは、返事を催促した。イワノウィッチは自分の激怒を放つべき機会を得たように思った。右の手が剣※[#「木+覇」、第4水準2−15−85]《けんは》を探ろうとする動き方をするのを、ようやく制しながら、
「豚《ぶた》め」と吐きつけるようにいうと、そのままドアを力まかせに開いて、外へ出た。ダシコフは彼の後姿を見ながら、
「それじゃ罰の方が欲しいのだな」と後から、捨台詞《すてぜりふ》を投げた。

          四

 ルブリンが陥ちたという報道が来た。ドイツの飛行機タウベが、ワルシャワの上空を見舞う日が多くなった。そのうちの一機が、夏の日に、輝いて流れるヴィスワ川の上空から、ワルシャワの街の上を低く飛翔《ひしょう》しながら多数の紙片を撒いた。その紙片には、
「木曜日にワルシャワ陥《お》つべし」と書いてあった。何週の木曜日だか、正確な時日はわからなかったが、それが、ワルシャワの市街を、ほのかに運命づけたようにみえた。ワルシャワの市民は、この紙片を見て笑った。が、それは、嘲笑でもなければ、苦笑でもない、一種妙な、皮肉な笑い方であった。
 ポーランド人が多いワルシャワの市民は、戦いについて、こんなことをいっていた。
「露兵が独兵を、遠く駆逐してくれればいい。そして彼らがワルシャワから、遠く離れてくれればいい」この彼らのうちは、独兵も露兵も、一緒に含まれていたのである。
 亡国の氏として、露国の主権に服従していた人々には、今度、独軍がワルシャワを占領するということは、借家人が、いつの間にか、自分の家が売物に出ているのを知るのと、あまり変ったおどろきではなかった。
 彼らは、タウベが飛んでいる空の下で、平気でアイスコーヒーやソーダ水を飲んでいたのである。
 ワルシャワの衛戍隊《えいじゅたい》であったイワノウィッチの連隊も、戦場へ送られる日を待っていた。彼などはもう三十マイルと離れていない戦場で、敵、味方の照明弾が打ち上げられるのが明らかに見えた。
 イワノウィッチには、急にいろいろな任務が割り当てられ出した。それが妙に夕暮から、夜にかけての仕事が多かった。
 ダシコフの命令を、イワノウィッチは無意識に守っている形であった。リザベッタに会わずに四、五日が過ぎてしまった。
 八月の三日であった。連隊にとうとう出動命令が下った。翌四日をもって、ワルシャワを撤退し、野戦軍と合すべく、ジラルドゥフ停車場方面の戦線へ進出せよというのであった。
 イワノウィッチは、初めて、砲火の洗礼を受くべく、戦いの大渦巻の世に入らねばならなかった。
 彼は、さすがにリザベッタのことが、忘れられなかった。戦場へ出ることは、ある程度まで死を意味していたのだから、彼は、リザベッタに最後の名残を告げようと思っていた。撤退の準備として、ワルシャワの工場は、もうたいてい火を掛けられていた。それと独機の爆弾のために起っている火事とで、ワルシャワの街は煌々《こうこう》と明るかった。イワノウィッチは、中隊長の目を盗んで、秘《ひそ》かにワジェンキの営舎を抜け出たのである。
 道では、折々避難者の馬車に会った。彼らは家財や道具を崩れ落ちるほど馬車に積んで、停車場の方角へ急いでいた。
 が、その晩もワルシャワの市民の大部分は、まだ落着いていた。芝居も活動小屋も興行を続けていた。今ワルシャワを占領している者も、彼らには他人であった。二、三日後にワルシャワを占領する者も、また彼らには他人であった。
 その夜、リザベッタは、市街の混乱と騒擾《そうじょう》とを恐れて出演してはいなかった。彼女は極度に興奮していた。夏の夜に適《ふさわ》しい薄青い服を着て、ソファに倚《よ》りながら、不安な動揺にみちた瞳を輝かしながら市街に起る雑多な物音に脅えていた。
 彼女は、イワノウィッチがドアを開けると、すぐ駆け寄りながら、
「ワルシャワは陥ちるのでしょうか」と深い憂慮に震えながら尋ねた。

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