顔を背《そむ》けた。そして馭者に命じて、速力を増さしめた。
 その次の朝、イワノウィッチは、ワジェンキ宮殿の広場で、不意にダシコフ大尉と会った。彼は妙な圧迫を感じて足を止めて挙手の礼をした。するとダシコフは、悪意のある微笑を湛《たた》えながら、近寄ってイワノウィッチの肩を軽く叩きながら、
「君は第一大隊の士官候補生《ユンケル》だったね。わしは連隊副官のダシコフだ。いいか! 連隊副官のダシコフだよ」といいながら、さらに皮肉な笑い方をした。
 イワノウィッチは、この男が恋の相手たる自分を、階級の力をもって圧迫しようとする悪意を、ありありと感じたのである。彼は反抗の心が、胸に溢れるのを感じた。するとダシコフは再びイワノウィッチの肩を叩きながら、
「またゆっくり会おう。白鳥座以外のところでね」といいながら、脅威的な悪意のある笑みを残して去った。

          三

 七月が、だんだん終りに近づいた。ワルシャワの市街を照す日光は、日に日に熱度を加えてきた。それと同時にワルシャワを半円に取り巻いている独軍の戦線が、時々刻々縮まっていった。
 イワノウィッチには、毎晩夜の来るのが待たれる。昼間は、営舎の内部がひどい熱気に蒸されて、大きいストーブのようになっていた。そして、ワルシャワ名物の蝿が、天井にも、床にも、壁にも、いっぱいに止まって、それが不断に動いて、壁や天井そのものまでが動いているように見えた。
 が、夜になるとワジェンキ宮殿の泉水には冷たい微風が吹き起った。月の光が、ワルシャワの街を青い潮水の水底にあるように思わせた。その中を霧が煙のように絶えず上って、霧の晴間には、月の光にぬれた樹木の青葉が、きらきらと輝いているのが見えた。そんな宵、彼は必ずリザベッタの家を訪うた。
 彼女は、バガテラからあまり遠くない、ブラウスキ街十二番地にある家に住んでいた。彼女は大きい建物の三階にある部屋を三つばかり占めていて、ローナという年寄の婦人と慎ましく住んでいた。彼女は劇場に出る前の短い時間を、欣《よろこ》んでイワノウィッチをもてなした。
 彼はリザベッタの室にいる時、折々老婆がダシコフの来たことを告げに来ることがあった。が、そんな時リザベッタは、ちょっとイワノウィッチに気兼ねをしながら、
「病気だといっておくれ」と断った。そうした後などは、イワノウィッチは、ことさらに自分の勝利
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