すべてが、今からいかんともしがたい、前世の出来事のように思い出された。彼は、そのすべてが許され、そのすべてが是認されたようなのびのびした心持であった。煉獄を通ってきた後の朗かな心持であった。
時々、人を殺したということが、彼の心を翳《かげ》らそうとすることがあった。が、そんな時、彼は幾十万の人間が豚のごとく殺される時、そのうちの一人や二人が何かほかの動機から殺されても、何もそう大したことではないように思われた。恐らく、目の前であまり多くの人が殺し殺されるのを見たので、人殺しに対するイワノウィッチの感覚は、鈍ったのかも知れない。しかも彼自身、機関銃を操って、他の多くの人間を殺していたのである。
×
快い朝である。
新しい軍服を着たイワノウィッチは、いま揚々として病院の廊下を歩いている。すべてが巧くいった。彼は、こうした満足らしい心持しか心になかった。
「やっぱり、ダシコウが、俺に勲章をくれたことになる」彼はまたこう繰り返した。そして、彼はその皮肉を苦笑した。が、そんな回想は、今日、ニコライ太公からサン・ジョルジェ勲章を貰う欣《よろこ》びを少しでも傷つけるものではない。
彼は病院の廊下を揚々と闊歩している。籠の駒鳥はまた高らかに二、三度鳴き続けた。
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:らぴす
1999年5月18日公開
2005年10月12日修正
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