碁は、誰にも負けない!)と、豪語した。また自分に不利な三目ではあるが、五番つづけざまに負けた。この表には、かいてないが、もう一番自分は、四目になるのを嫌って三目で打って負けたように記憶している。
だが、四目になると、最初の一番は直木が有利な形勢であったのを、最後まで打って見ると意外にも、僕が一目の勝であった。その後、直木の碁は非常に粗雑になって、四番自分が連勝した。そして、三目になった。ところが三目でも自分が勝った。二月の初旬に、彼は入院の準備を始めていた。そして、入院したら暫く会えないことを憂いてか、大阪にいる老父を訪ねて行った。帰って来たのは、六日か七日である。
八日の晩に会ったとき、直木は非常に憔悴していた。いつもは(一番やろう)と云って、自分が誘うのであるが、その日は直木の容子が、あまりに悪そうなので、自分が控えていると、直木の方が(一番やろうか)と云った。
最初は、直木は中央に大模様を作って、自分は策の施しようがない気がした。しかし、打っている内に、直木の石は、バラバラになって、自分は大勝した。横に見ていた人が、直木をからかった。自分は、直木の病勢が、わるいのを知っていたから、勝ってもちっともうれしくなかったので、その人がからかわなければいいがと思ったが、その人はいつも直木と冗談半分に喧嘩をしている人なので、いつもの通り直木をひやかした。
「茲は、俺の家だ。茲へ来て、主人たる俺をからかう奴があるか」と、云って、怒っていた。むろん、冗談ではあったが。
その日、入院するつもりであったらしいが遅くなったのでよした。あくる日行って見ると、直木はまだ、入院しないでいた。二月一日入院の筈が、大阪への旅行や何かで、のびのびになったのである。
昨日、負かして却って気持がわるかったから、その日は自分の方から(一番やろう)と云った。自分が誘えば、いやと云ったことのない直木である。打ちかけたが、昨日よりももっと直木はよわかった。まるで、バラバラであった。自分は、また大勝した。しかし、ちっとも愉快でなかった。
もうこの頃は、脳膜炎の兆候があったのである。八日の日に、大学へ診察を受けに行ったが、始終頭痛がすると云っていたそうである。
頭痛がするので、むしゃくしゃし、その気ばらしに自分と対局していたのであろうと思う。
九日の晩、自分と碁を打ってから、直木は自動車を呼んで、病院へ向った。
自分は、脳膜炎になっている直木を、三目で二度負かしたわけである。
二月号で、村松梢風氏との棋力の優劣について、何か云っていたが、あれは両方で強がっているので、第三者たる川端君の説によれば、互角らしいとの事である。直木は、正気のある間は、生きるつもりでいた。死前四日に、自分に対して
「長くかかるだろうが、生命に別条はないと思う。二三日物が、たべられると、どうにかなる」
と云っておしるこを喰べていた。直木の病気が致命的であることを医者から聴き、もうあきらめていたが、自分は直木の希望をくじくような事は云わなかった。そうした希望を持ったまま死なせるつもりでいた。遺言などをきいても心を乱すだけで、借金が減るわけでなし、凡そ奇妙な遺族関係が、どうなるわけでもないと思ったからである。
しかし、意識が不明になって見ると、正気の裡に、何か話して置けばよかったと云う後悔も残っていた。
これは余談だが、お通夜の晩に、壁に貼って置いた前記の直木との手直り表を、誰かが家を掃除するときに、はがしてあるのを発見した。
この手直り表には、直木が自分で書いた所もあり、自分と直木との交友のよい記念である。それを心なくはがされているのを見ると、自分はむやみに腹が立って、社員や女中を怒鳴りつけて、探させた。幸いに、反古と一しょに庭へ捨ててあるのが発見された。自分は、それをまた元の所へ貼りつけて置いてある。
底本:「日本の名随筆 別巻1・囲碁」作品社
1991(平成3)年3月25日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第5刷発行
底本の親本:「菊池寛文学全集 第六巻」文芸春秋新社
1960(昭和35)年6月
入力:渡邉つよし
校正:門田裕志
2001年7月26日公開
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