城へ入ったと書いてあるが、これは恐らく俗説で、当夜熊谷信直の部下を従え、厳島神社の大鳥居の方面から敵の兵船の間を乗り入れて、敵が咎めると、「お味方に参った九州の兵だ」と言って易々と上陸し、塔の岡の坂下に陣して、本軍の鬨《とき》の声のあがるのを待っていた。
即ち毛利の第一軍は、地御前より厳島を迂廻し、東北岸鼓の浦に上陸し、博奕尾の険を越え、塔の岡の陶本陣の背面を攻撃し、第二軍は、宮尾城の城兵と協力し、元就軍の本軍が鬨の声を発するを機とし、正面より陶の本陣を攻撃するもので、小早川隆景これを率いた。
第三軍は、村上、来島等の海軍を以て組織し、厳島の対岸を警備し、場合に依《よっ》ては、陶の水軍と合戦を試みんとするものだ。
元就が鼓の浦へ上陸しようとする時、雨が頻《しき》りに降ったので、輸送指揮官の児玉|就忠《なりただ》が、元就に唐傘をさしかけようとしたので、元就は拳を以て之を払除けた。
陶の方は、塔の岡を本陣としたが、諸軍勢は、厳島の神社附近の地に散在し、其の間に何等の統制が無かったらしい。之より先弘中三河守は陶に早く宮尾城を攻略すべき事を進言したけれども、陶用いず、城攻めは、十月|朔日《ついたち》に定《き》まっていた。その朔日の早暁に、元就が殺到したわけである。
元就は鼓の浦へ着くと、乗っていた兵船を尽く二十日市へ漕ぎ帰らしめた。正に生還を期せぬ背水の陣である。吉川元春は先陣となって、えいえい声を掛けて坂を上るに、其声|自《おのずか》ら鬨の声になって、陶の本陣塔の岡へ殺到した。
陶方も毛利軍の夜襲と知って、諸方より本陣へ馳せ集って防戦に努めたが、俄かに馳せ集った大軍であるから、配備は滅茶苦茶で、兵は多く土地は狭く、駈引自由ならざるところに、元就の諸将、揉《も》みに揉んで攻めつけたから、陶軍早くも浮足たった。
かねて打合せてあった小早川隆景の軍隊は、本軍の鬨の声を聞くと、これも亦|大喊声《だいかんせい》をあげて前面から攻撃した。大和伊豆、三浦越中、弘中三河守等の勇将は、敵は少し、恐るるに足らず、返せ返せと叫んで奮戦したが、一度浮足たった大軍は、どっと崩れるままに、我先に船に乗らんと海岸を目指して逃出した。晴賢は、自身采配を以て身を揉んで下知したが、一度崩れ立った大軍は、如何《いかん》ともし難く、瞬《またた》く中に塔の岡の本陣は、毛利軍に蹂躙《じゅうりん》されてしまった。
敗兵が船に乗ったので、陶の水軍が、俄かに狼狽《あわ》て出したところを、毛利の第三軍たる村上、来島等の水軍が攻めかかったので、陶の水軍は忽《たちま》ち撃破されて、多くの兵船は、防州の矢代島を目指して逃げてしまった。
塔の岡の本陣を攻落された陶軍は、厳島神社の背面を西へ西へと逃走した。勇将弘中三河守は同|中務《なかつかさ》と共に主君晴賢の退却を援護せんが為に、厳島神社の西方、滝小路(現在の滝町)を後に当て、五百騎ばかりにて吉川元春の追撃を迎え撃った。弘中父子必死に防戦したから、流石の吉川勢も斬立てられ、十四、五間ばかり退却した。元春自身槍をとって、奮戦していると、弘中軍の武将|青景《あおかげ》波多野等、滝町の横町、柳小路から吉川勢を横撃した。
此の時吉川勢殆んど危かったのを、熊谷伊豆守信直等|馳合《はせあわ》せて、其の急を救ったので、弘中|衆寡《しゅうか》敵せず、滝小路の民家に火を放って、弥山道《みせんどう》の大聖院《たいしょういん》に引あげた。吉川勢は、其の火が厳島神社にうつる事を恐れて、消火に努めている間に、晴賢は勇将三浦等に守られて、大元浦《おおもとのうら》に落ちのびた。大元浦は、厳島神社から西北二、三町のところである。そこへ吉川勢に代った小早川隆景が精鋭を率いて追撃して来た。
陶が此処《ここ》にて討死しようとするのを三浦諫め、「一先ず山口へ引とり重ねて勢を催され候え。越中|殿《しんがり》して討死つかまつらん」と晴賢を落し、斯《か》くて、三浦越中守、羽仁《はに》越中守、同将監、大和伊豆守等骨を砕いて戦った。三浦は、隆景を討たんとし、隆景の郎党、草井、山県、南、井上等又隆景を救わんとして、尽く枕を並べて討死をした。殊に草井は、三浦に突伏せられながら、尚三浦の足にからみついたので、三浦、首を斬って捨てた。
三浦の奮戦察すべきである。
隆景の苦戦を知って、元春の軍、後援の為馳付けた。
三浦は随兵|悉《ことごと》く討死し、只一人になって、山道に休んでいるところへ、二宮|杢之介《もくのすけ》馳付けると、三浦偽って「味方で候ぞ」という。味方でので[#「で」に傍点]の字の発音山口の音なるに依って、二宮敵なるを知って、合じるしを示さんことを迫る。三浦立上って奮戦したが、遠矢に射すくめられ二宮の為に討たれた。
大和伊豆守は、毛利方の香川光景と戦う。香川は大和と知合いの間柄だった。大和は、文武の達者で、和歌の名人であったから、元就かねて生擒《いけどり》にしまほしきと言っていたのを光景思出し、大和守に其意を伝えて、之を生擒にした。
陶入道は、尚西方に遁れたが、味方の兵船は影だになく、遂に大江浦にて小川伝いに山中に入り、其辺りにて自害したと言われている。
伊加賀民部、山崎|勘解由《かげゆ》等これに殉じた。晴賢の辞世は、
[#ここから3字下げ]
なにを惜しみなにをうらみむもとよりも
此の有様の定まれる身に
[#ここで字下げ終わり]
この時同じく殉死した垣並《かきなみ》佐渡守の辞世は、
[#ここから4字下げ]
|莫[#レ]論[#二]勝敗跡[#一]《しょうはいのあとをろんずるなかれ》
人我暫時情《ひとわれざんじのじょう》
一物不生地《いちぶつふしょうのち》
山寒海水清《やまさむくかいすいきよし》
[#ここで字下げ終わり]
家臣は、晴賢の首を紫の袖に包み、谷の奥に隠しておいたが、晴賢の草履取り乙若というのがつかまった為、其|在所《ありか》が分った。
弘中三河守は、大聖院へひき上げたが、大元方面へ退いた味方の軍の形勢を見て、折あらば敵を横撃せんと、機会を覘《ねら》っていたが、大元竜ヶ馬場方面も脆《もろ》く敗退した為、大元と大聖院との間の竜ヶ馬場と称する山上へ登り、此処を最後の戦場として父子主従たった三人になる迄吉川軍と決戦して遂に倒れてしまった。
此の人こそ、厳島合戦に於ける悲劇的英雄である。
これで厳島合戦も毛利軍の大勝に帰したわけであるが、晴賢自殺の場所については、厳島の南岸の青海苔浦《あおのりのうら》(青法ともかく)という説もあるが、晴賢は肥満していて歩行に困難であったと言うから、中央の山脈を越して南岸に出るわけは無いのである。
元就は合戦がすむと、古来此の島には、決して死人を埋葬しないことになっているので、戦死者の死骸は尽く対岸の大野に送らせ、潮水で社殿を洗い、元就は三子を伴って斎戒して、社前に詣で、此の大勝を得たことを奉謝している。
元就は斯くて十月五日に二十日市の桜尾城に於て凱旋式《がいせんしき》を挙行しているが、彼は敵将晴賢の首級に対してもこれを白布にて掩《おお》い、首実検の時も、僅かに其白布の右端を取っただけで、敵将をみだりに恥かしめぬだけの雅量を示している。其の後首級は、二十日市の東北にある洞雲寺という禅寺に葬らせた。
厳島合戦は戦国時代の多くの戦争の中で圧倒的な大勝であるが、其間に僥倖の部分は非常に少く、元就の善謀と麾下《きか》の団結と、武力との当然の成果と云って宜《よ》い位である。元就は分別盛りであるし、元春、隆景は働き盛りである。晴賢はうまうまとひっかけられて猛撃を喰い、忽《たちま》ちノックダウンされたのも仕方がなかったと言うべきである。陶軍から言わしたら垣並の辞世にある通り、勝敗の跡を論ずる莫れであったに違いない。
底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本では本文が「新字新仮名」引用文が「新字旧仮名」ですが、ルビは「新仮名」を共通して使用していると思われますので、ルビの拗音・促音は小書きにしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング