、陶に味方をしているのである。
 厳島《いつくしま》合戦は、毛利元就が主君の為めに、陶晴賢を誅《ちゅう》した事になっているが、秀吉の山崎合戦のように大義名分的なものではないのである。兎に角元就は、一度は陶に味方をしてその悪業を見遁《みのが》しているのである。
 尤《もっと》も元就は、大内義隆の被官ではあるが必ずしも家来ではない。だから晴賢討伐の勅命まで受けているが、それも政略的な意味で、必ずしも主君の仇《あだ》に報ゆるという素志に、燃えていたわけではないのである。
 只晴賢と戦争するについて、主君の為に晴賢の無道を討つという看板を掲げ、名分を正したに過ぎない。尤も勅命を受けたことも、正史にはない。
 毛利が陶と不和になった原因は、寧《むし》ろ他にあるようだ。晴賢が、義隆を殺した以後二三年間は無事に交際していたのだが、元就が攻略した尼子方の備後国江田の旗返《はたがえし》城を陶が毛利に預けないで、江良丹後守に預けた。これ等が元就が陶に不快を感じた原因である。
 そして機を見るに敏なる元就は、陶が石州の吉見正頼を攻めに行った機に乗じて、安芸の桜尾、銀山等の城を落してしまった。
 その上、吉見
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