、彼の胸に突き刺さった。が、中座することは、彼の利かぬ気が許さなかった。
夜の更けると共に、一座の客は減っていた。幸太郎は鈴木兄弟の不運をすでに知っていたのだろう。客の減るのを計って、座を立つかと思うと、杯を持ちながら忠次郎の前へ来た。半知になっていても、忠次郎の方が家格は遥かに上であった。
「貴殿からも、杯を一つ頂戴いたしたい」
幸太郎は、忠次郎が蒼白《まっさお》な顔をしながらさした杯を快く飲み干しながら、
「御不運のほどは、すでにきき及んだ。御無念のほどお察し申す」
幸太郎の言葉には、真摯な同情が籠っていた。自分でも敵を狙ったものでなければ、持ち得ない同情が含まれた。
忠次郎はそれをきくと、つい愚痴になった。無念の涙がはらはらと落ちた。
「お羨ましい。お羨ましい。なんという御幸運じゃ、それに比ぶれば、拙者兄弟はなんという不運でござろうぞ。敵をおめおめと死なせた上に、あられもない悪評の的になっているのじゃ」
忠次郎は、声こそ出さないが、男泣きに泣いた。
幸太郎は、それを制するようにいった。力強くいった。
「何を仰せらるるのじゃ。一旦、敵を持った者に幸せな者がござろうか。御身様などは、まだいい。御身様は、物心ついた七歳の時から四十七歳の今日まで、人間の定命《じょうみょう》を敵討ばかりに過した者の悲しみを御存じないのじゃ」
そういったかと思うと、三十年間の櫛風沐雨《しっぷうもくう》で、銅《あかがね》のように焼け爛れた幸太郎の双頬《そうきょう》を、大粒の涙が、ほろりほろりと流れた。
忠次郎の傷ついた胸が、温かい手でさっと撫でられたように一時に和《なご》んでいた。
二人は、目を見合わしたまま、しばらくは涙を流し合った。
その三
宝暦三年、正月五日の夜のことである。
江戸牛込二十騎町の旗本鳥居孫太夫の家では、お正月の吉例として、奉公人一統にも、祝酒《いわいざけ》が下された。
ことに、旧臘十二月に、主人の孫太夫は、新たにお小姓組頭に取り立てられていた。二十一になった奥方のおさち殿が、この頃になって、初めて懐胎されたことが分かった。
慶《よろこ》びが重なったので、家中がひとしお春めいた。例年よりは見事な年暮《ねんぼ》の下され物が、奉公人を欣ばした。五日の晩になって、年頭の客も絶えたので、奉公人一統に祝い酒を許されたのであった。
主人の孫
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