庵という医師が病死したからといって、それが直之進であるとは決っていない。ことに父が討たれたときに、弱冠であった忠三郎が敵の面体を確かに覚えていようはずがない。その忠三郎が、一目見たからといって淳庵が直之進であると決めてしまうのは、不|穿鑿《せんさく》であると。これは、兄弟にはかなり手痛い非難であった。が、もっとひどい噂があった。兄弟は、敵討に飽いたのだ。わずか八年ばかりの辛苦で復讐の志を捨ててしまったのだ。和田淳庵という名もない医師が死んだのを、直之進が病死したのだといいこしらえて、帰参のいい訳にしたのだと。兄はそんな流言を聞くごとに、血相を変えていきり立った。彼はそうした噂をいいふらすものと、刺し違えて死のうと思っていた。が、そうした流言は、誰がいいふらすともなく、風のごとく兄弟の身辺を包んで流れるのであった。
 兄弟にとっていちばん悲しいことは、そうした世の疑いを解くべき機会が、永久に来ないことだった。
 年が明けると安政四年であった。兄弟にまつわる悪評も、やっぱり年を越えていた。が、安政四年の秋となり、冬となると、さすがに、兄弟のことを取り立てていう者もなくなった。短気な忠次郎も、腹を立てる日が、少なくなっていた。
 が、兄弟が食うべき韮は、まだ尽きてはいなかった。
 それは安政四年も押し詰まった十二月十日、同藩士の久米幸太郎兄弟が、父の仇、滝沢休右衛門を討って、故郷へ晴がましい錦を飾ったことである。
 それが、なんという辛抱強い敵討であったろう。兄弟の父の弥五兵衛が、同藩士中六左衛門の家で、囲碁の助言から滝沢休右衛門に打たれたのが、文化十四年十二月、長男幸太郎が七歳、次男盛次郎が五歳のときであった。兄弟が伯父板倉留二郎の手に人と成って、伯父甥三人、永の暇《いとま》を願って、敵討の旅に出たのが、文政十一年、兄幸太郎が十七歳、弟盛次郎が十五歳の秋だった。伯父の留二郎は、四十二歳であった。
 三人は文政から天保、弘化、嘉永、安政と、三十年間、日本国中を探し回った。幸太郎が安政四年に、陸奥国牡鹿郡折《むつのくにおじかごおりおり》の浜の小庵に、剃髪して黙昭と名乗って隠れて忍んでいる休右衛門を見出したのは、安政四年十月六日のことだった。
 不幸にも、弟の盛次郎と伯父留二郎は、幸太郎と別れて関八州を尋ねていた。幸太郎は思った。弟や伯父の三十余年に渡る艱難も、ただこの敵に一
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