口惜しさは、とうてい忘れることができませぬ」
 新一郎は、万之助の激しい意気に圧倒されて、口が利けなくなった。自分が下手人だと名乗ったら、今までの親しみなどはたちまち消えて、万之助はただちに、自分に向って殺到してくるに違いなかった。
「ごもっともである。それならば、復讐禁止令の御発布にならぬ前に志を遂げられたがよい。だが、山田の顔、吉川の顔はご存じか」と、新一郎はきいた。
「それで難儀でござりまする。二人とも存じませぬ。その上、一人は近衛大尉、一人は警部、二人ともなかなか手出しのできぬ所におります。その上、私の志は両人を一時に討ち取りたい願いなので、ことを運ぶのが容易でござりませぬ」
「なるほど……」そう答えて、新一郎は暗然としてしまった。
 新一郎は、名乗って討たれてやろうかと思った。しかし、新一郎は頼母を殺したことを、国家のための止むを得ない殺人だと思っていただけに、名乗って討たれてやるほど、自責を感じていなかった。その上、最近になって、左院副議長江藤新平の知遇を得て、司法少輔に抜擢せられる内約があったし、そうなれば、新日本の民法刑法などの改革に、一働きしたい野心もあった。
 当分万之助の様子を見ながら、万之助に復讐の志を変えさせることが、皆のためにもなり、万之助のためにもなるのではないかと思っていた。
 そのうちに、明治六年が来た。
 正月の年賀に、万之助は水道橋の旧藩主松平邸に行った。彼は、そこで山田甚之助に会ったが、山田は軍刀の柄を握って、万之助に対し少しの油断も見せなかった。万之助は、懐中していた短刀の柄に幾度も手をかけたが、吉川も同時に討ちたいという気持と、相手が着ている絢爛たる近衛士官の制服の威力に圧倒されて、とうとう手が出なかった。
 その夜、万之助は新一郎の前で、泣きながら口惜しがった。
 それから、間もない明治六年二月に、太政官布告第三十七号として、復讐禁止令が発布された。
 布告は、次の通りの文章であった。

[#ここから1字下げ]
 人ヲ殺スハ、国家ノ大禁ニシテ、人ヲ殺ス者ヲ罰スルハ、政府ノ公権ニ候処、古来ヨリ父兄ノ為ニ、讐《アダ》ヲ復スルヲ以テ、子弟ノ義務トナスノ古習アリ。右ハ至情不[#レ]得[#レ]止ニ出ルト雖モ、畢竟私憤ヲ以テ、大禁ヲ破リ、私義ヲ以テ、公権ヲ犯ス者ニシテ、固《モトヨリ》擅殺《センサツ》ノ罪ヲ免レズ。加之《シカノミナラズ
前へ 次へ
全19ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
菊池 寛 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング