斬られそこなったからといって、その家来に敵と狙われる理由がどこにあるか。まるで、理屈も筋も通らない恨み方ではないか。わしに何の罪がある。ひどい! まったくでたらめだ!」
上野介は、寒さと怒りとに、がたがたふるえながら首を振った。
物音が、少し静かになった。
「行ったのかな」
「いいえ。まだまだ」
二人は、炭俵の後方に、ちぢんでいた。雪を踏んで、足音が小屋を目指して近づいて来るのがきこえた。
十
戸が軋って、雪明りがほのかにさしこんだ。
「しまった、だめだ」と思ったとき、戸口へ火事装束らしい姿の男が現れて、槍をかまえながらはいろうとした。用人が、薪を掴んで立ち上ると、投げつけた。その男は、たちまち戸口へ飛び出すと、
「この中が怪しいぞ」と、叫んだ。そして、もう一度槍を構えて、
「出ろ!」と、叫んでじりじりとはいって来た。用人は、炭を、薪を、投げつけたが、用人の後の白衣《びゃくえ》を着た上野の姿を見つけると、
「ええい!」と、叫んで、突きかけて来た。上野は、後へ下ろうとして、荒壁へ、どんと背をぶっつけたとたん、太股をつかれて尻餅をついた。
(何の罪があって、わしは殺されるのだ。どこに、物の正不正があるのだ。わしは、殺された上に、永劫《えいごう》悪人にされてしまうのだ。わしの言い分やわしの立場は、敵討という大鳴物入りの道徳のために、ふみにじられてしまうのだ)
上野は、炭を掴んで投げつけた。用人が、槍を持っている男の側を兎のようにくぐって、外へ出たとたん、雪の上に黒い影が現れて、掛け声がかかると、用人はよろめいて手を突いた。
「この中が、怪しいのか」
もう一人の男が、ずかずかとはいって来て、上野の着物の白いのを見当に、
「参るぞ!」と、刀を振り上げた。
「大石がいるか」上野がきいた。
「誰だ! 貴公は」
「大石がいたら……」
「いなさる」
上野は、
(大石がいたら、この筋の立たない敵討を詰《な》じってやろう)と、思いながら、立ち上ろうとして、よろめいた。後から来た男が、襟首を掴んで、引きずろうとした。
上野は、
(主も無茶なら、家来も無茶なことをする連中だ)と感じたが、恐怖に心臓が止りそうで声が出なかった。そして、ずるずると引きずられて出た。
「やあ! 白綸子を着ている」
外で待っていた一人がいった。誰かが、呼子の笛を吹いた。
(白綸子を知っている。何も物事がわからんくせに、白綸子だけを知っている。わしはどうして浅野主従のために、重ね重ねひどい目に遭うのか)
上野は混乱した頭の中で、
(わしは内匠頭に殿中で斬られたために、強欲な意地悪爺のように世間に思われた。わしの方が何か名誉回復のために仕返しでもしたいくらいだ。それだのに、わしが前に斬られかけたということが、なぜ今度殺される理由になるのか。まるきり物事があべこべだ)
人々が黒々と集って来た。
小肥りの、背のあまり高くないのが来ると、
「大夫、どうも上野殿らしく!」と、一人が丁寧にいった。
(これが、大石か)と、上野が思ったとき、
「傷所を調べてみい」
二、三人が手早く肩を剥き出して、手燭をさしつけた。
「あります」
大石は、頷くと、雪の中へ膝を突いた。上野は、おやっと思いながら、ちらっと見ると、
「吉良上野介殿とお見受け申します。われわれは元浅野内匠頭の家来――大石内蔵助良雄以下四十六名の者でありますが、先年は不慮のことにて……」
と、雪の中に手をついて名乗りかけた。
(なるほど、これだ。大石は、やはり大石だ。なぜ、あのとき江戸におらなんだ。大石がおれば、わしもお前もこんなことにならずに済んだのだ。大石だけが、わしの心をいくらか知っている。そうだ、すべてが不慮のことなのだ。わしのばかばかしい災難なのだ。災難とあきらめて討たれてやろうか)
上野が、混乱した頭で、自分勝手なことを考えていると、大石は何かいい終って、短刀を差し出すと、
「いざ!」といった。
短刀を突きつけられると、上野の頭に、わずか萌していたあきらめは、たちまちまた影をかくした。自分の立ち場も言い分も、敵討というもののために、永久にふみにじられてしまう怒りが、また胸の中に燃え上っていた。
彼は、浅野主従、世間、大衆、道徳、後世、そのあらゆるものに刃向って行く気持で、その短刀を抜き放ってふらふらと立ち上った。
「未練な!」
「卑怯者め!」
(何が卑怯か、わしには正しい言い分があるぞ!)そう思いながら、あてもなく短刀をふり回していると、
「間《はざま》! 切れ!」と、大石がいった。
(大石にも、不当に殺される者の怒りが分からんのか)と思ったとき、
「ええっ!」と、掛け声がかかった。
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:大野 晋
2000年2月8日公開
2005年10月17日修正
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