不如意を口実に断らんか。お受けした上で、慣例まで破って、けちけちすることがあるか。内匠を早く呼びなさい!」
上野が、こういっていたとき、内匠頭が険しい目をして、足早に家来の後方へ現れて来た。
「何か不調法でもいたしましたか」上野に、礼をもしないでそういった。
「不調法?」上野は頷いて、「不調法だ! この畳の縁は何だっ!」
「繧繝です」
「繧繝にもいろいろある。これは、何という種類か」
「それは知りません。しかし、畳屋には、繧繝といって命じました。確かに繧繝です」
「模様が違う。取り換えなさい!」
「取り換える?」
「そうだ!」
「今から」
「作法上定まっている模様は、変えることにはなりませぬぞ。いくら、貴殿が慣例を破っても、こういうことは勝手には破れんからな。即刻、取り換えなさい。次……」
そういうと、上野は内匠頭の返事も待たず、次の間にはいった。
内匠頭は、蒼白になって、その後姿をにらんでいた。
六
明日の、勅使の接待方の予定が少し変ったときいて、内匠頭は、伊達左京を探してきこうとしたが、茶坊主が、
「もう、お下りになりました」といった。
「吉良殿は?」
「おられます」
内匠頭は、廊下へ出で、高家衆の溜《たまり》へ歩きつつ、
(上野にきくのは、残念だが……)と思った。
(しかし、伊達にききにやるのも面目にかかわるし……)
そう思って、松の間の廊下へ出たとき、上野が向うから歩いて来た。
「しばらく」
上野は、じろっ! と内匠頭を見て、立ち留った。
「明日、模様替えがありますそうで、どういう風に……」
「知らないのか」
「ききもらしましたが、どうかお教えを!」
「ききもらした! 不念な。どこで何をしていた?」
「ちょっと忙《せわ》しくて」
「忙しいのは、お互いだ」
上野は、行き過ぎようとした。
「しばらく、どうぞ明日の」といって、右手で上野の袖をつかんで引いた。
「何をする!」上野は、腕を振って、大声を出した。腕が内匠頭の手に当った。
「何一つ、わしのいうことをきかずにおいて、今更のめのめと何をきく?」
上野が、大声を出したので、梶川が襖を開けて、顔を出した。内匠頭は蒼白になっていた。
「わしを、あるか無しかに扱いながら、自分が困ると、袖を引き止めて何をきくか?」
上野は、内匠頭がだまっているので、
「ばかばかしい!」と呟いて、行き過ぎようとした。
「教えて下さらんのか?」
「教えて下さらんというのか、内匠、貴殿、わしが教えてきいたことがあるか?」
「明日のことは、儀式のことにて、公事ではござらぬか」
「公事なればこそ、先刻通達したときに、なぜききもらした?」
「それは、拙者の不念ゆえ、お教えを願っているのに」
「貴公の不念の尻拭いをしてやることはない!」上野は、そういって歩き出した。
「教えんと、おっしゃるのか」内匠は、後から必死の声で呼んだ。
「くどい!」
「公私を混同して……」と、内匠がいうと、
「それは、貴公だろう。金の惜しさに、前例まで破って!」
「何!」
梶川が、
「あっ!」と、低く叫んで立ち上った。上野は、
「何をする!」と、叫んだ。内匠頭の手に、白刃が光っていた。
上野は、よろめいて躓《つまず》くように、逃げ出した。内匠頭が及び腰に斬りつけたとき、梶川が、
「何をなさる!」と叫んで、組みついた。
七
「内匠頭は、切腹と決りました」と、子の左兵衛が枕元へ来ていった。
上野は、横に寝て、傷の痛みに顔を歪めていたが、
「そうだろう」と答えた。
「お上では、乱心者としてもっと寛大な処置を取ろうとなさいましたが、内匠頭は、乱心でない、上野は後の人のために生かしておけんなどと、いろいろ理屈をいったそうで、とうとう切腹に……」
「あの意地張りの気短め、どこまで考えなしか分かりゃしない。そして、殿中ではどう評判をしている。どちらが悪いとかいいとか」
「ええ、内匠頭の短慮と吝嗇《りんしょく》はよく知っていますが、殿中で切りつけるには、よくよく堪忍のできぬことがあってのことだろうというので、やはり同情されています。梶川の評判はよくないようです。どうしてもっと十分にやらせてから、抱きとめなかったかと……」
「無茶なことをいう、十分にやられてたまるものか。わしは軽い手傷だし、向うは切腹で家断絶だから、向うに同情が向くだろうが、といって、わしを非難するのは間違っている」
「いや、父上を一概に非難してはいませんが」
「いや、事情の分かっている殿中でそのくらいなら、ただことの結果だけを見る世間では、きっとわしをひどくいうだろう。わしは、今度のことでわるいとは思わん、わしは高家衆で、幕府の儀式慣例そういうものを守って行く役なのだ。その慣例を無視されたのでは、わしにどこに立つ瀬があるか。ことの起りは、あちらにある。ところが、殿中でわしに斬りつけるという乱暴なことをやったために、よくよくのことだということになって、たちまち彼奴《きゃつ》が同情されることになるのだ。わしが、あの時殺されていても、やっぱり向うが同情されるだろう。あいつが、でたらめのことをやったということが、世間の同情を引くことになるのだ。ばかばかしい」
「しかし、わけを知っている人は、よく分かっています」
「そうだろう。だから、お上からも、わしはお咎《とが》めがなくて、あいつは切腹だ。しかし、世間は素直にそれを受け入れてくれないのだ。彼奴が乱暴なことをしただけで、向うに同情が向くのだ。思慮のない気短者を相手にしたのが、こちらの不覚だった。まるで、蝮《まむし》と喧嘩したようなものだ。相手が悪すぎた」
「まったく」
「内匠も内匠だが、家来がもっと気が利いていれば、こんな事件にはならないのだが。わしは、迷惑至極だ。斬られた上に世間からとやかくいわれるなんて。こんな災難が、またとあるか」
医者が次の間から、
「あまり、お喋りになっては」と注意した。
八
上杉の付家老、千坂兵部が、薄茶を喫し終ると、
「近頃、浅野浪人の噂をおききになりましたか」と、上野にいった。
「どんな?」
「内匠頭のために、御隠居を討つという」
上野は笑って、
「何でわしを討つ? 内匠頭に斬られそこなった上に、まだその家来に斬られてたまるか」
「なるほど、内匠頭が切腹を命ぜられたのは自業自得のようなもので、恨めば公儀を恨むべきで、老公を恨むところはないはずですが、ただ内匠頭が切腹のとき、近臣の士に、この怨みを晴らしてくれと遺言があったそうで、家臣の者の中に、その遺志を継ごうというものが数多あるそうで……」
「主が、自分の短慮から命を落したのに、家来がその遺志を継ぐという法があるものか」
「ところが、世間の者は、くわしい事理は知らずに、ただ敵討というだけで物を見ます。こういう衆愚の力は、恐ろしいものです。その吹く笛で踊る者が出てきます。それに、浅野浪人も、扶持に放れた苦しみが、この頃ようやく身にしみてきましたから、何かしらやりたいのです。仕官も思い通りにならないとすると、局面打開という意味で、何かやり出すにきまっています。彼らは、位置も禄もありませんから、強いのです。何かしてうまく行けば、それが仕官の種になりますし、失敗に終っても元々です。だから、この際、思い切って上杉邸へお引き移りになったらいかがですか」
「いやなことだ!」上野介は、首を振った。
「わしは、ちっとも悪いことをしたと思っていない。わしと内匠頭の喧嘩は、七分まで向うがわるいと思っている。それを、こんな世評で白金へ引き移ったら、吉良はやっぱり後暗いことがあるといわれるだろう。わしは、それがしゃくだ」
「御隠居も、なかなか片意地でございますな」
「うむ。だが、わしはつまらない喧嘩を売られたとしか思っていない。わしは、喧嘩を売った内匠の家来たちに恨まれる筋はないと思っている」
「理屈は、そうかも知れませぬが」
「一体、浅野浪人の統領は誰だ!」
「大石と申す国家老でございます」
「大石内蔵助か。あの男なら、もっと事理《わけ》が分かっているはずだ。わしを討つよりか、家再興の運動でもすると思うが。わしを討ってみい、浅野家再興の見込みは、永久に断たれるのだが」
「さようでございましょうが、禄を失いました者どもは、それほどの事理を考える暇がございますまい。公儀という大きい相手よりも、手近な御隠居を……」
「分かった! 分かった! しかし、内匠頭をいじめたようにとかく噂されている上に、今度はその敵討を恐れて逃げ回っているといわれて、わしの面目にかかわる。来たら来たときのことだが、千坂、結局噂だけではないか」
「なれば結構でございますが。しかし、万一の御用意を」
「だが、引き移るのはいやだよ」
「それならば、、お付人として、手の利いたものを詰めさせる儀は」
「うむ。それもいいが、なるべく世間の噂にならぬように」
「はは」
千坂は、この頑固な爺と気短な内匠頭とでは、喧嘩になるのはもっともだと思った。しかし、この頑固さを、世間でいうように、強欲とか吝嗇《りんしょく》とかに片づけてしまうのは当らないと思った。
九
どどっと物の倒れる、めりめりと戸の破れる、すさまじい響きが遠くの方でして、人の叫びがきこえてきた。上野介は、耳をすました。
「火事だ」という声がした。
(この押しつまった年の暮に不念な。邸内かな、それとも隣屋敷か……)と、思いながら上野は、
「火事か」と、隣にいるはずの近侍に声をかけた。そして、半身を起すと、畳を踏む音、家来の叫びが、きこえた。
「火事はどこだ。誰かいないか!」
気合をかけたらしい、鋭い声がした。近い廊下の雨戸が、叩き落されたらしい音がした。同時に、どっかの板塀にかけやを打ち込んでいるらしい音が、つづけざまにきこえた。
「浅野浪人かな?」
上野は、有明の消えている闇の中で脇差をさぐり当てた。
と、薄い灯の影がさして、
「御前」側用人が、叫んではいって来た。
「狼籍者が、押し込みました」
「浅野浪人か」
「そうらしいです。すぐお立退きを」
上野は、あわてて起き上った。太刀打ちの音がした。掛け声がきこえた。人の足音が、庭に廊下に部屋に、入りみだれかけた。
「こちらへ!」
「どこへ行く」
「お早く、お早く」
側用人は、勝手口に出て、戸を引き開けた。雪あかりであった。いろいろな物音が、冴えかえって、はっきりときこえてきた。用人は、炭小屋の戸をあけて、
「ここへ!」といった。上野は、裸足のまま中へはいると、用人はすぐ戸をしめてしまった。
「大勢か」
「五、六十人。裏と表から」
「五、六十人!」
上野は、そんなに大勢の人間が、浅野の家来の中から、自分を討つために残っていようとは思えなかった。
「外の加勢でもあるのではないか」
「さあ」
「別に悪いことをせん人間が、喧嘩を売られて傷を受け、世間からは憎まれた上に、また後で敵として討たれるなんて、こんなばかなことがあるものか」
上野は、世間や敵討といったような道徳に、心の底からしみ出て来る怒りを感じた。
「御前、しっ、黙っていないと、見つかります」
上野は、呟くのを止めた。炭小屋の中はしんしんとして冷え渡っていた。外の人の叫び、足音は、だんだん激しくなってきた。
「本当に、浅野浪人か」
「そうらしいです」
「これで、俺が討たれてみい、俺は末世までも悪人になってしまう。敵討ということをほめ上げるために、世間は後世に俺を強欲非道の人間にしないではおかないのだ。俺は、なるほど内匠頭を少しいじめた。だが、内匠頭は、わしの面目を潰すようなことをしている。わしの差図をきかない上に、慣例の金さえ持って来ないのだ。これはどっちがいいか悪いか。しかし、先方が乱暴で、刃傷《にんじょう》といった乱手《らんて》をやるために、たちまち俺の方が欲深のように世間でとられてしまった。あいつはわしを斬り損じたが、精神的にわしは十分斬られているのだ。それだのに、まだ家来までがわしを斬ろうなどと、主人に
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