義民甚兵衛
菊池寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)画《かぎ》られて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皮|被《か》ぶってる

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》いて

 [#…]:返り点
 (例)不[#レ]恐[#二]御領主を[#一]仕方
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人物
 農夫     甚兵衛   二十九歳 甚しき跛者
 その弟    甚吉    二十五歳
 同      甚三    二十二歳
 同      甚作    二十歳
 甚兵衛の継母 おきん   五十歳前後
 隣人     老婆およし 六十歳以上
 庄屋     茂兵衛
 村人     勘五郎
 村人     藤作
 一揆の首領  甲
 同      乙
 刑吏、村人、一揆、その他大勢

 文政十一年十二月

 讃岐国香川郡弦打村
[#ここで字下げ終わり]

          第一幕

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甚兵衛の家。藁葺きの、大なれども汚き百姓家。左に土間、土間につづいて台所の右は八畳の居間、畳も柱も黒く光っている。入口の柱には、金比羅大神宮の大なる札を貼っている。その札も、黒くくすぶっている。八畳の奥は部屋のあることを示している。家財道具はほとんどなし。
母屋の左に接近して、一棟の建物がある。画《かぎ》られて、牛小屋と納屋とになっている。牛はいない。
幕開く。甚作と甚三とが、家の前庭で、「前掻き」と称する網を繕《つくろ》っている。(方形の形をして柄が付いている。小溝の鮒や泥鰌《どじょう》を掬《すく》うに用いるもの)しばらくすると、母のおきんが、母屋と牛小屋との間から、大根を二本さげて出てくる。冬の日の黄昏《たそがれ》近し。
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[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
おきん 畜生! また大根を二、三本盗みやがった! 作、今度見つけたら背骨の折れるほど、どやしつけてやれ! どこのどいつやろう。
甚作 新田の権《ごん》が、昨日夕方裏の畑のところを、うろうろしていたけに、あいつかも知れんぞ。飢饉で増えたのは畑泥棒ばかりじゃ。
おきん 大根やって、今年は米の飯よりも大事じゃ。百本ばかりある大根が、冬中のおもな食物《くいもの》じゃけになあ。
甚三 お母《かあ》、木津の藤兵衛の家じゃもう食物《くいもの》が尽きたけに、来年の籾種にまで、手を付けたというぞ。
おきん 藤兵衛が家でけ。ええ気味じゃ。藤兵衛の嬶《かかあ》め、俺がいつか小豆一升貸せいうて頼んだのに、貸せんというてはねつけやがったものな。
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(おきん、台所へ入り水を汲んで大根を洗っている。隣家の老婆、およし入ってくる。ぼろぼろの着物を着て、瘠せはてている)
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およし 甚作さんたち、何しているんでや。
甚作 これから、魚掬いに行くんじゃ。
およし お前の所じゃ、まだそななことができるから、ええな。わしの所じゃ、老人《としより》夫婦で泥鰌一匹捕ることやてできやせん。食べるものは、もう何にもなしになってしもうた。
甚三 およし婆さん。羨むなよ。これでな、二人で一日中小溝を漁ってもな、細い泥鰌の二十匹も取ればええ方じゃぞ。
およし そうかな。
甚三 この近所じゃ、銘々で取り尽して、川には、小鮒一つやて、おりゃせんわ。山には、山の芋どころか、のびるだって、余計は残っておらんぜ。
およし もう一月もしたら、何食うやろうぜ。
甚三 おおかた壁土でも食っているやろう。
甚作 滝の宮の方じゃ、もう松葉食うとるだ。
およし 民百姓がこなに苦しんどるのに、お上じゃまだ御年貢を取るつもりでいるんじゃてのう。
甚作 御年貢米の代りに、人間の乾干しを収めるとええぞ。
およし 明和の飢饉じゃて、これほどではなかったのう。
甚作 あの時には、お救い小屋が立ったというじゃないか。
およし そうじゃ、そうしゃ。わしもな、お救い小屋のお粥をもろうたがなあ。ひどい飢饉じゃったけれどもな、今度ほどは困らなかったぞ。みんな、お上がよかったからじゃ。御家老様が、偉い御家老様だったでな。お蔵米を惜しげもなくお下げになったのじゃ。
甚三 今度は、お蔵米どころか、こちらを、逆さにして鼻血まで、搾り出そうとしている。
およし わしもなあ、長生きしたおかげで、食うや飲まずの辛い目にあうことじゃ。
    (ふと、この家に来た用向きに気がついて、いいにくそうに)おきんさん。わしゃ、お頼みがあって来たんじゃがな。
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