という言葉も、またレイモンド嬢やシュザンヌ嬢のことをいっているのではなかった。なぜなら、その紙片《かみきれ》はもっとずっと前に出来たものであったから。
 万事はやり直しだ。
 エイギュイユの秘密を書いてある本が、ルイ十四世の時に出来て、それはまもなく焼き捨てられた。ただ二冊だけ残っている。一冊は例の大尉が盗み出した。また一冊はルイ十四世の御手《おんて》に残り、ルイ十五世に伝わり、十六世の時に獄屋の中で焼き捨てられた。しかしその写しの紙片《かみきれ》が女王に渡された。女王はそれを聖書の中に挟まれた。
 少年はその聖書の行方を尋ねた。聖書は博物館の中に蔵《しま》われてあった。
 ボートルレはその博物館へ行き、見せてくれるように頼んだ。博物館長はすぐに許してくれた。聖書はあった。中に紙片《かみきれ》もあった。それには何か書いてある。少年は慄える手でその紙片《かみきれ》をとり出して読み始めた。
「これを我が王子に伝う。   マリー・アントワネット。」
 読み終らぬうちに、あっと一声少年は驚きの声を上げた。女王の御名《おんな》の下にさらに……黒インキで、アルセーヌ・ルパンと書いてある。
 アルセーヌ・ルパンはもはやこの紙片《かみきれ》を奪い去っていた。少年は決心した。エイギュイユの秘密が仏蘭西《フランス》の国にある以上、どうしても探し出さなければならない。大尉の手によって火の中から拾い出されたもう一冊の本も探し出そう!

            大尉の子孫

 ボートルレはそれから一生懸命、その大尉の子孫を探し始めた。
 ある日マッシバン博士からボートルレ少年に手紙が来た。それによるとヴェリンヌという男爵が、大尉の子孫であることが分ったから、私と一緒にその男爵を訪ねてみようという手紙であった。しかしあとで博士は、用があるから一緒に行けないが、その男爵の家で逢おうということになった。
 少年はそのヴェリンヌ男爵の邸に出掛けた。余り事件がすらすらと運ぶので、もしやマッシバン博士というのはルパンの計略で、自分は恐ろしい敵の計略に掛るのではないかとも思われた。けれども少年は勇気を振《ふる》って出掛けた。
 博士はもう来ていた。ヴェリンヌ男爵も機嫌よく逢ってくれた。そして例のエイギュイユの秘密を書いた本もあるそうである。ボートルレは余りの嬉しさにせき込んで尋ねた。
「その本はどこにございましょう。」
「それ、その机の上です。」
 ボートルレは飛び上った。あるある!小さな本が卓子《テーブル》の上にある。
「ああ、ありましたね。」と博士も叫ぶ。
 二人は一生懸命に読み始めた。暗号の解き方が書いてある。しかし途中で何だか分らなくなってしまった。暗号の解き方ならボートルレがもはや考えたことである。
 少年はどうすればいいか分らなくなった。
「どうしたんです!」と博士は聞いた。
「分らなくなりました。」
「なるほど、分らない。」
「畜生、しまった!」といきなりボートルレが呶鳴った。
「どうしたんです!」
「破ってある!途中の二|頁《ページ》だけ破ってある、ごらんなさい。跡がある……」
 少年はがっかりしてしまった。そして口惜しさにその身体はわなわなと慄えている。
 誰か忍び込んでこの本を探し、その大事な二|頁《ページ》だけを※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り取ったものである。男爵も博士も驚いてしまった。
「娘が知っているかもしれません。」といって男爵は令嬢を呼んだ。令嬢は不幸《ふしあわせ》な人で夫が亡くなったので一人の子供を連れて、父親である男爵の邸へ来ているのである。
 夫人は昨晩その本を読んだのであった。が、その時は裂かれているところなどはなかったということである。それでは裂かれたのは今日である。邸の中は大騒ぎとなった。しかしその二|頁《ページ》の行方は分らない。ボートルレはあきらめた。少年は夫人に尋ねた。
「あなたは、この本をお読みになったのなら、裂かれた二|頁《ページ》もお存じでいらっしゃいましょう。」
「ええ。」
「ではどうぞ、その二|頁《ページ》のところを私にお話し下さい。」
「え、よろしゅうございます。その二|頁《ページ》はたいへん面白いと思って読みました。それは本当に珍しいことで……」
「それです。それが一番大切なことです。エイギュイユ・クリューズは何でしょう。早くどうぞお話し下さい。」
「思ったよりも簡単なことです。それは……」
 夫人が話し出そうとする時、一人の下男が手紙を持ってきた。夫人は怪しみながらそれを開くと、
「黙れ!そうでないとあなたの子供は起《た》つことが出来なくなるだろう。」
「ああ、子供は……子供は……」と夫人は驚きの余り、ただそういうだけで子供を助けに行くことも出来ない。
「嚇《おどか》されてはいけません。ね、奥さん、何でもありません、どうぞ話して下さい。」
 ボートルレは一生懸命であった。
「きっとこれはルパンの仕業だろう。」とマッシバン博士がいった。
 その時乳母が駆け込んできた。「坊ちゃまが……急にお眠りになって……」
 夫人は裏庭へ誰よりも先に駆けつけた。子供は長椅子の上に身動きもせずに横たわっている。
「どうしたの、ああ手が冷たい、早く醒まして!……」
 これを見たボートルレは何を思ったのか、手をポケットに突っ込んでピストルを握り、引金《ひきがね》に指をかけるや、いきなりマッシバン博士に向ってどんと一発撃ち放った。
 あっという間もなく、マッシバン博士は素早く身をかわした。少年はおどり掛って博士に組みつき、驚いている下男たちに叫んだ。
「加勢だ!加勢だ!ルパンだこいつが……」
 組みつかれたマッシバン博士はよろよろと倒れたが、がばとはね返して少年の手からピストルを奪いとった。
「よし、動くな、俺を見破るまでにはかなり時間が掛ったな。マッシバン博士の変装がそんなにうまく出来たかしら?」といいながら驚きあきれている男爵や下男を尻目に掛けながら、
「ボートルレ、君は馬鹿だな、ルパンだなんていうからこの連中は恐れて加勢しなかったんだぜ。でなけれや、俺は負けるところだった。」ルパンは一人の下男に向い、「おいお前だったな、さっき俺が百|法《フラン》小切手をやったのを返してくれ。この不忠者め!……」
 一人の下男が恐る恐るそれを返すと、ルパンはそれを破ってしまった。そして帽子を手にとって夫人に向い、叮嚀に頭を下げた。
「どうぞお免《ゆる》し下さい。坊ちゃんは一時間もすればきっと醒めます。どうぞあの本のことだけはいわないで下さい。」
 そして男爵にもおじぎをしてステッキをとり上げ、巻煙草に火を点け[#「点け」は底本では「黙け」]、ボートルレに、「[#「「」は底本では欠落]さよなら、坊ちゃん。」と嘲ったようにいって悠々と出ていった。
 ボートルレはじっと身動きしなかった。しかし少年はもう夫人が決して話してくれはしないということが分ったので、すごすごと男爵の邸を出て考えながら歩いていった。
「おい、君どうしたい?」
と、いいながら、路傍《みちばた》の林の中から出てきたのは、さっきのマッシバン博士、否アルセーヌ・ルパンであった。
「君の来るのを待っていた。どうだい、うまいだろう。しかし真物《ほんもの》のマッシバン博士はちゃんとあるんだよ。何ならお目に掛けてもいいよ。どうだい、一緒に俺の自動車で帰らないかい?」
と、いいながら指を咥《くわ》えてぴゅーと一声口笛を吹いた。
 その勿体ぶったマッシバン博士の格構《かっこう》と、きびきびしたルパンの言葉使いとはまるっきり吊り合わなくて実におかしかった。ボートルレは思わず吹き出してしまった。
「ああ笑った!笑った。」とルパンは大喜びしながら叫んだ。「君のその笑い顔は実に可愛いよ。君はもっと笑わなくちゃあいかん。」
 その時自動車の音が近くで聞えてきた。大形の自動車が着いた。ルパンはその扉を開いた。ふと中を見たボートルレはあっと叫んだ。中に一人の男が横たわっている。その男すなわちルパン、否本当のマッシバン博士、少年は笑い出した。
「静かに静かに、よく眠っているからね。博士がここへ来る途中をちょっと捕《とら》えて、ちくりと一本眠り薬を注射したのさ。さ、ここに博士を寝かせておいてあげよう。」
 二人のマッシバン博士が顔を合わせているところは実におかしかった。一人は頭をだらりと下げてだらしなく眠っているのに、一人は大真面目な顔をしながら、馬鹿叮嚀におじぎをしている。
 二人は博士をその叢に寝かせて自動車に乗った。自動車は全速力で走り出した。
「君、もう好い加減に手を引いたらどうだい、そういったところで君は止めはしないだろう。しかし君があのエイギュイユの秘密を探し出すまでには、まだまだ幾年掛るか分らない、俺だって十日掛ったよ。このアルセーヌ・ルパンだってさ。君なら十年はきっと掛るね。俺と君とはそれだけ違いがあるのさ。」

        五 奇巌城
            三角形をなす都会

「俺だって十日は掛ったよ。」
 自動車の中でルパンのいったこの言葉を、ボートルレは聞き洩《もら》さなかった。ルパンが十日掛ったのなら、ボートルレにもきっと十日で出来ないことはない。いかにルパンだって自分とそんなに違う理由《わけ》がない。もともとこの事件の起りは、あの紙片《かみきれ》をルパンが落したからではないか、ルパンだってそんな大きな過ちをしているのだもの。ボートルレはヴェリンヌ男爵邸で読んだだけの本と、覚えている暗号とを頼りに一生懸命考え始めた。毎日部屋に閉じ籠《こも》って、それより他のことは考えなかった。きっと十日で考えてみせよう。
 しかし十日もすぎ、十一日十二日もすぎてしまった。が十三日目に、少年の頭にさっとある考えが浮んだ。きっとこれはルパンも考えついたことに違いない。それはエイギュイユ・クリューズの秘密が、仏蘭西《フランス》国家に代々伝わった秘密である以上、何かこの秘密をめぐって、一筋の繋がった事件が歴史に表われてはいないだろうか。
 少年は一生懸命歴史を調べ始めた。しかし歴史は種々《いろいろ》で、なかなかそれを調べて一筋の繋がりを探し出すことは難しい仕事であった。しかしボートルレが熱心に調べたところ、種々《いろいろ》の事件の中に一つの繋がりがあることを見出した。
 それはすべての事件が、ルーアン、ドイエップ、ルアーブル……この三つの都会に何かの繋がりがあることである。
 大昔、エイギュイユの秘密を知っていた人々はみんなこの三つの都のうちの、どれかの王であったり、またはそこで殺されたり、そこで戦争をしたりしているのである。そしてルイ十四世の時、あの本を火の中から盗み出して秘密を知り、宝物《ほうもつ》を盗み出していた大尉が、ポケットに立派なダイヤモンドを入れたまま、道の真中に死体となって現われたその場所もまた、ルーアンから、ドイエップから、ルアーブルから、この三つの都会からパリへ行く道なのである。
 ルーアン……ドイエップ……ルアーブル……は三角形をなしている。すべてはそこにある。
 一つは海、一つはセーヌ河、一つはルーアンからドイエップへ通じている一つの大きな谷。
 その時また、少年の頭に一つの光が流れた。それはこの三角形の場所こそ、巨人ルパンがいつも活動する場所だということである。この十年ばかりの間、世間の人たちを驚かせながら活動した場所はいつもここであった。
 しかも今度の事件は?、ジェーブル伯爵のあの僧院のある場所は、やはりルアーブルからドイエップへ通う道にある。きっとルパンは十年ばかり前にエイギュイユの秘密を探り出して、その宝物《ほうもつ》の隠してある場所を知ったに違いない。ルパンの力はそれだからこそ大きかったのに違いなかった。
 少年は意気揚々とパリを出発した。少年は三角形の中のすべてを片っぱしから調べ始めた。
 少年はある朝村の小さな飯屋で、馬方のような男がじろじろと自分を見ているのに気がついた。ボートルレは変な奴だと思ってその飯屋を出ようとすると
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