名前を知っているのですね。」
「そうです。」
「また隠れている場所も知っているでしょうね?」
「そうです。」
判事は揉手《もみて》をしながら、
「それは幸《さいわい》だ、で、君はその驚くべき考《かんがえ》を私に話してくれるでしょうね。」
「今からでも出来ます。」
この時、始めからボートルレの様子をじっと見詰めていたレイモンドがつと判事の前に進み出た。
「判事様……」
「何ですかお嬢さん。」
彼女はしばらく考えてなおボートルレの顔を見つめていたが判事に向って、
「あの判事様、私は昨日この方が小門の前の道をぶらぶら歩いていらっしたのを見掛けましたが、その理由を聞いて下さいませ。」
これは思い掛けない言葉であった。ボートルレはすっかり吃驚《びっくり》してしまった。
「僕がですか、お嬢さん!僕がですか!あなたは昨日私をごらんになったのですか。」
レイモンドは考えながら、重々しげな調子で、
「私は昨日午後四時頃土塀の外の森を散歩していますと、ちょうどこの方くらいの背丈《せいたけ》で、同じ着物を着てお髯もやはり短く切っていた若い方を見掛けました。その人はたしかに人に見られないようにしていたようでした。」
「そしてそれが僕なのですか?」
「はっきりとは申し上げられませんけれど、本当によく似たお方でした。」
暗中の怪火
判事は迷ってしまった。さっき一人の仲間に一杯喰わされたばかりなのに、今またこの中学生という男に欺かれるのではあるまいか?
「君は令嬢の言葉にどう返事しますか?」
「もちろん令嬢が間違っています、僕は昨日その時分にはブュールにいました。」
「証明がなければ困る。とにかく調べる必要があるから、君、警部君、この青年を監視させてくれたまえ。」
ボートルレはたいへん困ったような顔をした。
「判事さん、お願いだからなるべく早く調べて下さい。このことが父に知れて、父が心配すると大変ですから、僕の父はもう老人なのです。」
「今夜か……明朝までに調べましょう。」と判事は約束した。
判事はそれから再び注意ぶかく自分で気長に取り調べた。しかし夕方になってもやはり何の変《かわ》ったことも見つけられなかった。この時もうこの邸へ集《あつま》ってきた多くの新聞記者に向って、
「犯人はもうこの邸内にはいないと思われる。我々が考えたところによれば犯人はもう逃走したに違いない。」と語った。
しかしなお念のために邸園の警戒を厳重にして、判事は検事と共にひとまず本署へ帰った。
夜になった。ボートルレは自分のためにつけられた巡査の眼の光る傍《かたわら》で、椅子の上に眠った。外では巡査や百姓や村の人たちが建物の塀と僧院の間を絶え間なく見張っていた。十一時までは何事もなく静かにすぎたが、十一時を十分ばかりすると、一発の銃声が邸の方から響いた。
「用心しろ、二人だけここに残っていろ!他の者は銃声の方角に大急ぎで走れ。」と警部が叫んだ。
一同は邸の左手へどやどやと走った。この時、闇をついて何者か一人の男が消え去ったと思う間に、たちまち再び起る銃声にみんなはその銃声のした百姓家の方へと突進した。と、葡萄畠まで行きついた時、突然一筋の火の手が百姓家の右手にぱっと立ちのぼった。と同時にまた一箇所僧院の彼方に真赤《まっか》な火柱が立った。焼けているのは納屋らしい。
「畜生! 火を点けやがった。それ追っかけろ。まだ遠くへは行かんぞ。」と警部は呶鳴り散らした。
しかし風向《かざむき》で見ると火は本邸の方に向っている。何より先にこの危険を防がなければならない。伯爵も出てきてみんな一生懸命で火を消し止めたのは午前二時であった。もちろん犯人の影さえ見えない。
「どうして納屋などに火をつけるのか理由《わけ》が分らない。」と伯爵はいった。
「伯爵まあ私と一緒にいらっしゃい、その理由《わけ》を申し上げますから。」
警部と伯爵は連れ立って僧院の方に来た。警部は二人だけを残しておいた巡査の名を呼んだ。二人の巡査は出てこなかった。他の巡査たちが二人を探しに行った。と、小門の入口のところで二人の巡査が目隠しをされ、猿轡《さるぐつわ》を嵌められて、細縄で縛られているのを見つけた。
「残念ながら我々は誑《たぶらか》された。」と警部が呟いた。「あの銃声も火事もみんな我々の警戒を破るためだったのです。我々がその方に気をとられている間に、奴らは仕事をしていったのです。」
「仕事とは?」と伯爵が聞いた。
「傷ついた首領《かしら》を運び出すためです。」
警部はたいへん口惜しがった。そればかりではなかった。夜が明けてから、ボートルレ少年が見張りの巡査に眠り薬を飲ませて、窓から逃げ出したことが分った。
二 怪中学生
医学博士の誘
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