了海は身を退《すさ》って、
「いざ、実之助殿、約束の日じゃ。お切りなされい。かかる法悦の真ん中に往生いたすなれば、極楽浄土に生るること、必定疑いなしじゃ。いざお切りなされい。明日ともなれば、石工共が、妨げいたそう、いざお切りなされい」と、彼のしわがれた声が洞窟の夜の空気に響いた。が、実之助は、了海の前に手を拱《こまね》いて座ったまま、涙にむせんでいるばかりであった。心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋《しな》びた老僧を見ていると、彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。敵を討つなどという心よりも、このかよわい人間の双の腕《かいな》によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。



底本:「菊池寛 短編と戯曲」 文芸春秋
   1988(昭和63)年3月第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:伊藤祥
1999年2月1日公開
2001年12月29日修正
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