に散らばって、歩を運ぶたびごとに足を痛めた。
 洞窟の中は、入口から来る月光と、ところどころに刳《く》り明けられた窓から射し入る月光とで、ところどころほの白く光っているばかりであった。彼は右方の岩壁を手探《たぐ》り手探り奥へ奥へと進んだ。
 入口から、二町ばかり進んだ頃、ふと彼は洞窟の底から、クワックワッと間を置いて響いてくる音を耳にした。彼は最初それがなんであるか分からなかった。が、一歩進むに従って、その音は拡大していって、おしまいには洞窟の中の夜の寂静《じゃくじょう》のうちに、こだまするまでになった。それは、明らかに岩壁に向って鉄槌を下す音に相違なかった。実之助は、その悲壮な、凄みを帯びた音によって、自分の胸が激しく打たれるのを感じた。奥に近づくに従って、玉を砕くような鋭い音は、洞窟の周囲にこだまして、実之助の聴覚を、猛然と襲ってくるのであった。彼は、この音をたよりに這いながら近づいていった。この槌の音の主こそ、敵了海に相違あるまいと思った。ひそかに一刀の鯉口《こいぐち》を湿しながら、息を潜めて寄り添うた。その時、ふと彼は槌の音の間々に囁《ささや》くがごとく、うめくがごとく、了海が経文を誦《じゅ》する声をきいたのである。
 そのしわがれた悲壮な声が、水を浴びせるように実之助に徹してきた。深夜、人去り、草木眠っている中に、ただ暗中に端座して鉄槌を振っている了海の姿が、墨のごとき闇にあってなお、実之助の心眼に、ありありとして映ってきた。それは、もはや人間の心ではなかった。喜怒哀楽の情の上にあって、ただ鉄槌を振っている勇猛精進の菩薩心であった。実之助は、握りしめた太刀の柄が、いつの間にか緩んでいるのを覚えた。彼はふと、われに返った。すでに仏心を得て、衆生のために、砕身の苦を嘗めている高徳の聖《ひじり》に対し、深夜の闇に乗じて、ひはぎのごとく、獣のごとく、瞋恚《しんい》の剣を抜きそばめている自分を顧《かえりみ》ると、彼は強い戦慄が身体を伝うて流れるのを感じた。
 洞窟を揺がせるその力強い槌の音と、悲壮な念仏の声とは、実之助の心を散々に打ち砕いてしまった。彼は、潔く竣成の日を待ち、その約束の果さるるのを待つよりほかはないと思った。
 実之助は、深い感激を懐きながら、洞外の月光を目指し、洞窟の外に這い出たのである。
 そのことがあってから間もなく、刳貫の工事に従う石工のうちに、武家姿の実之助の姿が見られた。彼はもう、老僧を闇討ちにして立ち退こうというような険しい心は、少しも持っていなかった。了海が逃げも隠れもせぬことを知ると、彼は好意をもって、了海がその一生の大願を成就する日を、待ってやろうと思っていた。
 が、それにしても、茫然と待っているよりも、自分もこの大業に一|臂《ぴ》の力を尽くすことによって、いくばくかでも復讐の期日が短縮せられるはずであることを悟ると、実之助は自ら石工に伍して、槌を振い始めたのである。
 敵と敵とが、相並んで槌を下した。実之助は、本懐を達する日の一日でも早かれと、懸命に槌を振った。了海は実之助が出現してからは、一日も早く大願を成就して孝子の願いを叶えてやりたいと思ったのであろう。彼は、また更に精進の勇を振って、狂人のように岩壁を打ち砕いていた。
 そのうちに、月が去り月が来た。実之助の心は、了海の大勇猛心に動かされて、彼自ら刳貫の大業に讐敵《しゅうてき》の怨みを忘れようとしがちであった。
 石工共が、昼の疲れを休めている真夜中にも、敵と敵とは相並んで、黙々として槌を振っていた。
 それは、了海が樋田の刳貫に第一の槌を下してから二十一年目、実之助が了海にめぐりあってから一年六カ月を経た、延享《えんきょう》三年九月十日の夜であった。この夜も、石工どもはことごとく小屋に退いて、了海と実之助のみ、終日の疲労にめげず懸命に槌を振っていた。その夜九つに近き頃、了海が力を籠めて振り下した槌が、朽木を打つがごとくなんの手答えもなく力余って、槌を持った右の掌が岩に当ったので、彼は「あっ」と、思わず声を上げた。その時であった。了海の朦朧たる老眼にも、紛《まぎ》れなくその槌に破られたる小さき穴から、月の光に照らされたる山国川の姿が、ありありと映ったのである。了海は「おう」と、全身を震わせるような名状しがたき叫び声を上げたかと思うと、それにつづいて、狂したかと思われるような歓喜の泣笑が、洞窟をものすごく動揺《うご》めかしたのである。
「実之助どの。御覧なされい。二十一年の大誓願、端なくも今宵成就いたした」
 こういいながら、了海は実之助の手を取って、小さい穴から山国川の流れを見せた。その穴の真下に黒ずんだ土の見えるのは、岸に添う街道に紛れもなかった。敵と敵とは、そこに手を執り合うて、大歓喜の涙にむせんだのである。が、しばらくすると
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