衛が三十の年を迎えた時、こうしていては際限がないと思った。これまでとは全然別な手段を採ろうと決心した。それは虫の好かぬ惣八郎と、努めて昵懇《じっこん》になろうとすることであった。もし、それが成功したら、嫌な人間から恩を受けているのではなくして、昵懇の友人から受けていることになると思った。そして、彼はややそれに成功した。ある口実があったのを機会に、家伝の菊一文字の短刀を惣八郎に贈ろうとした。彼は自分の家に無くてはならぬ宝刀を失うことによって、恩を幾分でも返したというような心持を得たいと思ったのである。が、惣八郎は、真正面からそれを拒絶した。甚兵衛はまたそのことを快く思わなかった。惣八郎は、故意に恩を返させまいとするのだ、彼は一生恩人としての高い位置を占めて、黙々のうちに、一生自分を見下ろそうとするのだと甚兵衛は考えた。それならばよい、意地にも返してみせる、命を助けられたのだから、見事に助け返してやると思った。二人の間は見る見るうちに、また元にかえった。
しかし、途中で会えば、惣八郎はたいてい言葉を掛けた。甚兵衛は、多くは黙礼をもってこれに対した。そのうちに、二、三年はまた無事に過ぎ去っ
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