に向い、翌永禄元年二月には、義元に叛き信長に通じた寺部城主鈴木|重教《しげのり》を攻め、同じく四月には兵糧《ひょうろう》を大高城に入れた。
勿論、此頃には信長の方でも準備おさおさ怠りなく手配して居るのであって、かの大高城の如きも充分に監視して、兵糧の入ることを厳重に警戒した。若《も》し今川方から大高に兵糧を入れる気配があったら、大高に間近い鷲津、丸根の二城は法螺貝《ほらがい》を吹き立てよ、その貝を聞いたら寺部等の諸砦は速かに大高表に馳せつけよ、丹下、中島二城の兵は、丸根、鷲津の後詰《ごづめ》をせよと命じて手ぐすねひいて待ち構えて居た。
四月十七日夜に入ると共に支度をして居た、松平次郎三郎元康は、十八の若武者ながら、大任を果すべく出発しようとした。酒井与四郎|正親《まさちか》、同小五郎忠次、石川与七郎数正等が「信長ならば必ずや城への手配を計画して居る筈である。とても兵糧入れなどは思いもよらぬ」と諫めたけれども、胸に秘策ある元康だから聴く筈がない。一丈八尺の地に黒の葵《あおい》の紋三つ附けた白旗七本を押し立てて四千余騎、粛々として進発した。家康は兵八百を率い、小荷駄千二百駄を守って大高城二十余町の処に控えて居た。前軍は鷲津、丸根、大高を側に見て、寺部の城に向い不意に之を攻めた。丁度|丑満《うしみつ》時という時刻なので、信長勢は大いに驚いて防いだが、松平勢は既に一ノ木戸を押し破って入り、火を放ったと思うとさっと引上げた。引上げたと思うと更に梅ヶ坪城に向い二の丸三の丸まで打ち入って同じ様に火の手を挙げる。厳重に大高城を監視して居た、丸根、鷲津の番兵達は、はるかに雄叫《おたけ》びの声がすると思っているうちに、寺部、梅ヶ坪の城に暗《やみ》をつらぬいて火が挙がるのを見て、驚き且ついぶかった。大高城に最も近い丸根、鷲津を差置いて、寺部なぞの末城を先きに攻める法はないと独合点して居たからである。怪しんで見たものの味方の危急である。取る物も取り合えず、城をほとんど空にして馳せ向った。我計略図に当れりと、暗のうちに北叟笑《ほくそえ》んだのは元康である。このすきに易々《いい》として兵糧を大高城に入れてしまった。
この大高城兵糧入れこそ、家康の出世絵巻中の第一景である。大高城兵糧入れに成功した元康は、五月更に大府に向い八月には衣《ころも》城を下した。翌三年三月には刈屋を攻め、七月、東広瀬、寺部の二城を落し、十二月に村木の砦を占領して翌年正月にこれを壊している。
もうこうなると正面衝突よりないわけである。
永禄三年五月|朔日《ついたち》今川義元、いよいよ全軍出発の命を下した。前軍は十日に既に発したが、一日おいた十二日、義元子|氏真《うじざね》を留守として自ら府中(今の静岡)を立った。総勢二万五千、四万と号している。掛値をする処は今の支那の大将達と同じである。
義元出発に際して幾つかの凶兆があった事が伝えられて居る。
元来義元は兄氏輝が家督を継いで居るので自分は禅僧となって富士善徳寺に住んで居った。氏輝に予が無かったので二十歳の義元を還俗《げんぞく》させて家督を譲った。今川次郎|大輔《だいふ》義元である。処が此時横槍を入れたのが義元の次兄で、花倉の寺主|良真《りょうしん》である。良真の積りでは兄である自分が家を継ぐべきなのに、自分丈が氏輝、義元と母を異にして居る為に除者《のけもの》にされたのだと、とうとう義元と戦ったが敗れて花倉寺で自殺したという事があった。
その花倉寺良真が義元出発の夜に現れ出でた。義元、枕もとの銘刀|松倉郷《まつくらごう》を抜いて切り払った。幽霊だから切り払われても大した事はないのであろうが良真は飛び退いて曰く、「汝の運命尽きたのを告げに来たのだ」と。出陣間際に縁起でもないことをわざわざ報告に来たわけである。義元も敗けて居ずに「汝は我が怨敵《おんてき》である、どうして我に吉凶を告げよう」、人間でなくても虚言《うそ》をつくかも知れないとやり込めた。良真は「なる程、汝は我が怨敵だ、しかし今川の家が亡びるのが悲しくて告げに来たのだ」と云いもあえず消えてなくなった。
其他に、駿州の鎮守総社大明神に神使として目されていた白狐が居たのが、義元出発の日、胸がさけて死んで居たとも伝える。
どれも妖語妄誕だから真偽のほどはわからない。義元この戦に勝ったならば、このような話は伝らずにおめでたい話が伝っただろう。
閑話休題、十五日には前軍|池鯉鮒《ちりう》に、十七日、鳴海に来って村々に火を放った。
義元は十六日に岡崎に着いて、左の様に配軍せしめた。
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岡崎城守備 庵原《いおはら》元景等千余人
緒川、刈屋監視 堀越義久千余人
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十八日には今村を経て沓掛に来り陣し、ここで全軍の部署を定め
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