威|加海内《かいだいにくわわる》」とした。もって信長の意の一端を伺うに足りる。
しかし武断一点張りでなかった事は、暗殺しようとした稲葉一徹が、かの『雪擁藍関《ゆきはらんかんをようし》』の詩をよく解したと云う一点で許した如き、義元が一首の和歌の故に部下を許した、好一対の逸話をもっても知られる。
幼少より粗暴であったと云う非難があるが、勿論性格的な処もあるにしろ、自《おのずか》らそこに細心な用意が蔵されて居たのを知らなければならぬ。
又一方からは、足利末期の形式化された生活に対する革命的な精神の発露と見られる点もあるのである。
細心であったことは人を用うる処にも現れている。信長の成功と義元の失敗とはその一半を能材の挙否に帰してもよかろう。
近い例でこの桶狭間の役に梁田出羽守には、善き一言よく大利を得しめたと云って沓掛村三千貫の地を与えたが、義元の首を獲た毛利新助はその賞梁田に及ばなかった。賞与の末に於てさえ人の軽重を見るを誤らなかった。
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『読史《とくし》余論』の著者新井白石が、そのなかで信長成功の理由を色々挙げたうちに、
応仁の乱後の人戦闘を好みて民力日々に疲れ、国財日々乏しかりしに備後守信秀|沃饒《よくじょう》の地に拠《よ》つて富強の術を行ひ耕戦を事とし兵財共に豊なりしに、信長其業をつぎ、英雄の士を得て百戦の功をたつ。其国四通の地にして、京師《けいし》に近く且つ足利殿数十代の余光をかりて起られしかば威光天下に及ぶ。
と云って居るが、当を得た評論であろう。
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底本:「日本合戦譚」文春文庫、文藝春秋社
1987(昭和62)年2月10日第1刷発行
※底本は、物を数える際の「ヶ」(区点番号5−86)(「三ヶ国」)を大振りに、地名などに用いる「ヶ」(「梅ヶ坪城」等)を小振りにつくっています。
※底本では本文が「新字新仮名」引用文が「新字旧仮名」ですが、ルビは「新仮名」を共通して使用していると思われますので、ルビの拗音・促音は小書きにしました。
入力:網迫、大野晋、Juki
校正:土屋隆
2009年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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