余騎である。「両人とも早いぞ早いぞ」と声をかけて置いて、ひた走りに馳《か》けて熱田の宮前《みやまえ》に着いた時は、その数千八百となって居た。熱田の町口には加藤|図書助順盛《ずしょのすけよりもり》が迎えに出て来て居て、出陣式法の菓子をそなえた。信長は喜んで宮に参り願文《がんもん》を奉じ神酒を飲んだ。願文は武井入道|夕菴《せきあん》に命じて作らしめたと伝うるもので、
「現今の世相混沌たるを憂えて自ら天下を平定しようと考えて居ます処、義元横暴にして来り侵して居ます。敵味方の衆寡はあだかも蟷螂《とうろう》の車轍《しゃてつ》に当る如く、蚊子《ぶんし》の鉄牛を咬《か》むが如きものがあります。願わくば天下の為に神助あらんことを」と云った意味のものであるが、果してこの様な願文を出したかどうか多少怪しい処はあるが、この戦をもって天下平定の第一歩であると考えて居た事は疑あるまいと思われる。
信長、この時、賽銭《さいせん》を神前に投げながら、「表が出ればわが勝なり」と云った。神官に調べさせると、みんな表が出たので将士が勇躍した。これは、銭《ぜに》の裏と裏とを、糊《のり》でくっつけて置いたものでみんな表が出るわけである。
既にこの頃は夜は全く明け放れて、今日の暑さを思わせるような太陽が、山の端《は》を可なり高く昇っている。信長顧みれば決死の将士千八百粛々として附いて来ているが、今川勢は、何しろ十倍を越す大軍である。少しでも味方を多勢に見せなければならないと云うので、加藤順盛に命じて町家から、菖蒲幟《しょうぶのぼり》、木綿切《もめんぎれ》等を集めさせ、熱田の者に竹棹をつけて一本ずつ持たせ、高い処に指物の様に立たせて、擬兵をつくった。
『桶狭間合戦記』に、
「熱田出馬の時信長乗馬の鞍の前輸と後輸《しずわ》とへ両手を掛け、横ざまに乗りて後輪によりかゝり鼻謡を謡ふ」
とある。大方、例の『敦盛』と同じように好んで居た「死のうは一定《いちじょう》しのび草には何をしよぞ、一定かたりのこすよの……」
と云う小唄でも口ずさんで居たのであろう。決戦間近かに控えてのこの余裕ぶりは何と云っても天才的な武将である。こんな恰好で神宮を出でたつと道路の傍《わき》に、年の頃二十|計《ばか》りの若者が羽織を着、膝を付けて、信長に声を掛けられるのを待って居る様子である。信長見ると面体|勝《すぐ》れて居るので、何者だと問うと、桑原甚内と云い、嘗つて義元が度々遊びに来た寺の小僧をした事があって、義元をよく見知って居るから、願えることなら今度の戦に義元と引組んで首をとりたいと答えた。信長、刀を与えて供に加えた。毛利新助、服部小平太の両人が之を聞いて、この若者につきそって居て義元に出会おうと考えた。
今の時間で丁度八時頃、神宮の南、上知我麻祠《かみちがまのやしろ》の前で、はるか南方に当って一条の煙が、折柄の旭《あさひ》の光に、濃い紫色に輝きながら立ち上るのが見られた。丸根の砦の焼け落ちつつある煙だったのである。人馬を急がせて古鳴海《こなるみ》の手前の街道まで来ると、戦塵にまみれた飛脚の兵に出会った。丸根落ちて佐久間大学、飯尾近江守只今討死と告げるのを信長聞いて、「大学われより一時先に死んだのだ」と云って近習の士に銀の珠数を持って来させ、肩に筋違《すじか》いにかけ前後を顧みて叫んだ。「今は各自の命を呉れよ」と云うが早いか栗毛に鞭くれて馳《はし》り出した。従士達も吾劣らじと後を追うて、上野街道忽ち馬塵がうず巻いた。
丸根が落ちた後の鷲津も同様に悪戦苦闘である。今川勢は丸根に対した如く、火を放って攻めたので、信平を始め防戦の甲斐なく討死して残兵|悉《ことごと》く清須を指して落ちざるを得ない状態になった。時に午前十時頃。
鳴海の方面へ屯《たむろ》して居た佐々政次、千秋|季忠《すえただ》、前田利家、岩室|重休《しげよし》等は信長が丹下から善照寺に進むのを見て三百余人を率いて鳴海方面の今川勢にかけ合ったが衆寡敵せずして、政次、重休、季忠以下五十余名が戦死した。季忠は此時二十七歳であったが、信長あわれんでその子孫を熱田の大宮司になしたと云う。前田利家はこの戦以前に信長の怒りにふれている事があったので、その償いをするのは此時と計り、直《ただち》に敵の首を一つ得て見参《けんざん》に容れたが信長は許さない。そこで、その首を沼に投げ棄てて、更に一首をひっさげて来たが猶許されなかった。後《のち》森部の戦に一番乗りして、始めて許されたと云う。
笠寺の湯浅甚助|直宗《なおむね》と云う拾四歳の若武者は軍の声を聞いて、じっとして居れずに信長の乗かえの馬を暫時失敬して馳せ来り敵の一士を倒して首を得たので、大喜びして信長に見せた処が、みだりに部署を離れたとて叱責された。
惟住《これずみ》五郎左衛門の士、安井新左
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