勝敗決せず、疲れ果てて両軍相共に退いた。此の日の死骸は白雲《しらくも》村から東今出川迄横わり、大内及び土岐氏の討ち取った首級は、車八輛に積んでも尚余り有ったと云う。
丁度将軍義政の花の御所は、相国寺の隣りに在った。此の日余烟|濛々《もうもう》として襲い、夫人|上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》達は恐れまどって居るのに、義政は自若として酒宴を続けて居たと云う。こうなれば、義政も図々しい愉快な男ではないか。
戦後小雨あって、相国寺の焼跡の煙は収った。
此の戦闘以後は、さして大きな衝突もなく、両軍互いに持久戦策をとり、大いに防禦工事を営んで居る。宗全は高さ七丈余もある高楼を設けて、東軍を眼下に見下して得意になって居た。一方東軍では、和泉の工匠を雇入れて砲に類するものを作らせ、盛んに石木を発射せしめて敵陣を攪乱《かくらん》させたと云う。
亦面白いのは彼等将士の風流である。即ち紅絹《べにきぬ》素練を割《さ》いて小旗を作り、各々歌や詩を書いて戦場に臨んだと記録にある。
その上、兵士達には、何のための戦争だか、ハッキリ分らないのだから、凡そ戦には熱
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