の通帳で二百五十円の金を盗み取ったに違いないのである。私は、易の適中を知って駭いたのである。
私は、その二百五十円を何人に依って何処の郵便局で盗まれたかを検べるために、貯金局に願って、出入の明細表を作って貰った。ところが、その明細表で見ると、盗まれた形跡は少しもないのである。私は、オヤ/\と思ってよく見ると、私が前月に預け入れた二百五十円と云う金額が、脱落しているのである。即ち、私の預け入れた金が郵便局元帳に付落になっているのである。私は、駭いて預け入れの郵便局で検べて見たところ郵便局には、ちゃんと記帳済になっているので、預金局の誤ちと云うことが、直ぐ判明し、私は相当の手続を取って六十何円の通帳は、参百何円かの通帳に訂正されたのである。即ち、私が通帳を無くしたために、元帳にある記帳漏れが判ったことになり、私は一文も損をしなかったのである。私が感心していた『失くした物は出るが形はくずれている』はスッカリ駄目になったのである。『失くした物は出る、形はくずれているが、正味は変らない』と云わなければ当らなかったのだ。どうも、支那の古代に発見された易の判断は、通帳など云うものの、紛失に適用させ
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